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宮内勝典氏


ベトナム僧の実像に迫る『焼身』上梓

作家  宮内勝典氏

    一九七〇年代後半に『南風』(文藝賞受賞)でデビュー以来、世界各地を遍歴した実体験に基づき、 日本文学の枠を超えた世界性を追求する作品の数々を生み出している宮内勝典(かつすけ)氏。 文学者の立場からオウム真理教問題を論破した『善悪の彼岸へ』、巨大新興教団を描いた『金色の虎』をはじめ、 人間存在の光と闇を透徹したまなざしで浮き彫りにしてきた宮内氏の新作小説『焼身』(集英社)がこのほど出版された。 ベトナム戦争中の一九六三年、ゴ・ディン・ジェム政権の圧政に抗議し、街頭で焼身自殺を決行した仏教僧 「X師」の足跡をたどり、その実像に迫った意欲作である。長年の構想を経て本作を世に送った宮内氏に、 『焼身』執筆の背景や宗教と文学の接点などについて話を聞いた。 (聞き手=高橋由香里)
  (平成17年7月9日の中外日報紙面から)

 世界各地を旅されて、これまで六十近い国へ行かれたそうですね。

 宮内 子供のころ、誕生日のお祝いに地球儀をもらって、眠る前、 枕元に置いていつも回して眺めていた。そのとき、この地球という惑星が一体どのくらいの大きさで宇宙空間に 浮かんでいるのか、それをすごく知りたかった。ほかのことは独学できるし、本を読めば分かるけれど、 地球の大きさを実感できるようになるには旅をする以外ないなと。それが僕の出発点になっている。高校を出て、 日本各地を四年くらい歩いた後、アメリカに渡った。それ以来、地球を何周もしてきたから、地球の大きさを大体 イメージできるよ。

 作家を志したのはいつごろですか。

 宮内 はっきり意識したのは高校二年の時。オートバイ事故で火だるまになって、 生死の境をさまよった。四ヵ月間入院していた。それまでは画家になりたいと思っていたけど、人間が生きると か死ぬとか、死んだらどうなるかということは文学でしか表現できないと確信して、しだいに美術から文学に 関心が移っていった。

 新作小説『焼身』の着想を得たのは。

 宮内 そのオートバイ事故の体験も伏線だったけど、ベトナムのお坊さんが 坐禅を組んだまま燃えている写真、あれは全世界にものすごいショックを与えたんだ。
 でも当時はショックを受けただけで、そのお坊さんのことを書きたいと思ったのは湾岸戦争の時。 そのころはニューヨークに住んでいて、自分は欧米とアジアの中間のような存在だと感じていた。生活は欧米人と あまり変わらないけれど、僕はアジアの方にどうしても後ろ髪をひかれていた。それで湾岸戦争の時に、 なぜかあの焼身自殺のことを思い出して、あの人について書かなくてはいけないと思った。でもそのころは別の小説を 抱えていたので、何となくそのままだった。
 ところが9・11が起こって、今書かなくては一生この人のことは書けないと思った。それで翌年の夏に ベトナムに行って、そのお坊さんの足跡をたどり始めたのです。

 9・11以降の混乱する世界で「信じるに足るものは何か」という思いがあったと書かれていますね。

 宮内 自分が信ずるに足ると思っていた文学者や思想家の名前を心の中から 一つ一つ消していって、やはりこのX師、ティック・クアン・ドゥックという仏僧が残っていると思った。もちろんガンジーも 残っているんだけど、すでに表現され尽くしている。だからまだ表現されていないクアン・ドゥック師のことを追っていった。 もしこの人が偽者だったらアウトだと思った。ところがどこを追求していってもこの人は本物だという感じがして、 やはり信じるに足る人だと確信した。その確信がなければ書けなかったと思う。

 ベトナムへの旅を通して、X師は何者なのかという問いに対する手応えを得ることはできましたか。

 宮内 一つの精神が誰かの中で生き返るという意味で、やはり仏陀の生まれ 変わりだと思った。仏陀は二千五百年も前の人だけど、その思想はわれわれに伝わっている。僕らはそれを知っている だけ。でも、このベトナムのお坊さんは、まさに仏陀の精神が乗り移るようにして、あのような焼身供養を実行した わけですね。戦乱の真っただ中で。

 今回の『焼身』をはじめ、宗教をテーマにした数々の作品を執筆されていますが、文学者として宗教を どのように見ていますか。

 宮内 宗教と文学は絡み合い、せめぎあっていて、分離できないものだと思う。 例えば仏教にもキリスト教にも「悪魔の誘惑」が出てくるでしょう。僕はあのシーンがものすごく好きでね。あの場面には、 人類の精神のドラマが最も凝縮されているような気がする。そこには真実の全体というか、矛盾の全体がある。 その矛盾のむきだしの塊そのものが真実だとすれば、悪魔の誘惑のシーンはほとんど文学だよね。 きびしい修行をすれば、ある段階でかならず悪魔の誘惑に出会うと思う。それに向き合い、考え抜いた人が本物の 宗教者だと思う。僕は小説家だから、どうも誘惑者というか、悪魔の側にいるような気がする。今回の小説では、 その悪魔の側からX師に迫っていっても、この人には脱帽ですという感じがあったね。だから小説家である僕は、 あの人のことを誠心誠意書いた。世の中にはものすごい人がいるね。

 ベトナム政府の仏教弾圧に対して訴えるべく身を焼いたX師のように、ある目的のために自らを 犠牲にするというのは、宗教者の究極的なあり方と考えますか。

 宮内 つきつめると、そうなるんじゃないかな。やはり自ら発心して宗教者に なった人は、本気で人々に訴えかけてほしい。聖職者になった以上、命がけでやってほしい。例えばイラク戦争の時、 もしもローマ法王やダライ・ラマや日本の宗教界が一丸となって人間の楯になったら、空爆は絶対にできなかったと思う。 それくらい宗教って力を持っている。そういうことが試されている時代に来ているんじゃないかな。
 僕は宗教に関しては外野にいる人間だけど、文学においては本気だよ。文学はいまやタイタニック号のように 沈みかけている。かつての仲間の作家たちは、沈みかけた船からエンターテインメントの方に行ってしまった。 だけど僕はここから逃げない。救命ボートには乗らない。この船が沈むなら一緒に沈んでいく。最後まで船に残る。 文学に関してはそれだけのことは言えるよ。

 今の世の中で、文学はどのような力を持ち得るでしょうか。

 宮内 僕は早稲田大学で三年間教えていたけれど、若い人たちを見ていると、 この世界が空っぽで、生きるに値しないと思っている。自分自身に価値を見いだすことができず、生きることに意味が ないと感じている。そうではない、この世界は生きるに値する、人生には意味があるということを何よりも強く出すのが 文学であり宗教であると思うんだ。
 そういう意味で僕は、文芸を復興させたい。宗教界の人たちもがんばって、宗教を復興させてほしい。 それは教団を強くするという意味ではなく、宗教の本質である人間の魂の力を復興させるということだと思う。 魂の力って、今の世に一番足りない力じゃない。僕は小説家だから小説でやるけど、そういうことをそれぞれが 自分の持ち場でやればいいと思う。

 今回の作品では、人間は死とともに消滅するのか、そうではないのかという根源的な問いかけを されていますね。

 宮内 オートバイ事故で十日くらい意識不明になった時、こん睡状態で、 臨死体験も、神秘体験もなかった。顔中、包帯をぐるぐる巻きにされて目をふさがれていたけれど、天井の灯りだけが ぼうっと見えた。あの灯りを意識している限り生きている、意識できなくなったら死ぬんだなと。それ以外に何もなかった。 死というのは案外そういうものかもしれない。
 だけど人間の営みが無意味かというと、そうは思わない。仏陀の精神がベトナムのお坊さんを通じて 生き返ったように、キリストの精神を生きている人もいて、中には本当に偉い人もいると思う。
 そのように人間の精神の営みには、きっと意味があるような気がする。たとえ個人の意識は消えても、 人間の営みの総体として残ると思う。それを仏教では「阿頼耶識(アラヤシキ)」と言うんじゃないかな。
 それは生命が発生してからずっと続いている海のようなもので、人類のアーカイブ、意識の貯蔵庫のようなもの だと思う。単に貯蔵するだけではなく、その意識の海からまた人びとが生まれてくる。クアン・ドゥックというお坊さんも、 仏陀もキリストも、ソクラテスもドストエフスキーも、その海を大きく豊かにしている人たちだと思う。 無意識の深いところからわれわれを動かしている海のような力がある。そういうものに向かっていきたいね、 次の小説は。