■生い立ち
私は大正十二年の生まれですが、母は離婚後に私を身ごもっていることを知ったそうです。浄土真宗本願寺派の女教士(女性布教使)をしていた母は、山陰地方の被差別部落での布教や同和問題に熱心に取り組み、家には月に一、二度しか帰らないような生活を送っていました。私は母の実家である滋賀県野洲町(現・野洲市)の蓮照寺に預けられ、祖父に育てられました。しかし私の小学校入学を機に、母は私と一緒に暮らすため、女教士はやめて前職の教師に戻ろうと考えていました。
そのころ、大阪市立聾唖学校の教師をしていた友人から、母は校長の高橋潔を紹介されました。その聾唖教育に対する姿勢に共鳴した母は、教師としてではなく妻として校長を支えることになりました。そして高橋潔は私の父となったのです。
■手話法と口話法の論争
二人が結婚した昭和初期、高橋校長は非常に苦しい立場にありました。日本の聾唖教育は明治十一年に京都で始まり全国に広がりましたが、当初は手話法教育が行なわれていました。しかし大正半ばから昭和の初めにかけて、聾唖者に発語の仕方を教える口話法教育が優勢となったのです。
「ものが言えてこそ人間であり、手話は動物と同じで恥ずかしいものだ」という口話法側の主張に対し、父は「学校とは言葉を教えるだけではなく、人間としての心を教える所ではないか。たとえ『お母さん』と言えなくても、母親の流す涙の分かる子どもに育てるのが教育である。言葉を持たない動物が手話を行なうのか。むしろ、手話こそもっとも人間的ではないか」と反論し、聴力の程度によって口話法に適する者には口話法、適さない者は手話法で、一人も落ちこぼれることのない適性教育の重要性を訴えました。
そのころの日本は中央の指示には絶対服従で、父に賛同する人はいませんでした。そして昭和八年、全国聾唖学校の校長会議で父の主張は敗れ、口話法による教育が文部省によって正式に採用されたのです。しかし、父は聾唖者の将来の幸せのためにと、手話法教育を守り抜きました。
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■日曜学校の設立
父が苦慮していたのは聾唖者の宗教教育でした。クリスチャンの父は、生野教会での日曜学校を考えていましたが、もう一つ仏教関係の日曜学校も望んでいました。母は仏教徒、しかし母は超宗派で父に協力しようと思ったのです。父の「心の糧を聾唖者に授けたい」という思いに心打たれたのでした。
仏教日曜学校は、本願寺派超願寺にご協力いただくことになり、津村別院の千葉康之輪番が校長を務められ、昭和七年五月二十八日に開校しました。父が手話化した讃美歌や讃仏歌が御堂にあふれ、花祭には教会の友がお寺に、クリスマスにはお寺の友が教会に、それこそ超宗派の宗教教育が行なわれたのでした。
父の生誕百五年にあたる一九九五年、当時の教え子たちが私の家に集まってきました。八十歳を超えたお年寄りたちが、高橋校長の写真の前で讃仏歌「仏の子」を手話で合唱するのを見て、私は涙が出ました。そして、父の教育はまだ生きていると実感しました。
■母の「遺言状」
母は結婚から十年後の昭和十五年に亡くなり、父・高橋潔は昭和三十三年に苦しい生涯を終えました。私は父の思い出と聾唖教育の歴史に関する資料に基づき、『指骨』を出版しました。それが縁となって聾唖者との交流が始まり、昭和五十年に聾唖協会の手話通訳者になりました。
母の死から二十年ほどたったある時、私を出産する二週間前に母が万一の時に備えて書いた遺言状を見つけました。そこには、「いづ方(どなた)さまがこの子をお育てくださるかわかりませぬが、生母恋しいと申しましたら『南無阿弥陀仏』を称えるように申し聞かせてください」とありました。
私は寺で育ったので、「南無阿弥陀仏」はよく知っていると思っていましたが、それ以来、母の言葉を指針として、進んで聴聞にあずかるようになりました。
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■法話の手話通訳者に
その後、ある法座で講師の先生が「浄土真宗は聞法あるのみです。ただ聞きなさい」とお話しされました。その時、私は聴聞できない聾唖者のことを改めて思いました。そして彼らの耳の代わりをしようと、法話の手話通訳を申し出、聾唖者たちをお寺に誘いました。
けれども生まれたときからまったく聞こえない人には、お釈迦様、法然上人、親鸞聖人をはじめ、「諸行無常」「摂取不捨」「煩悩」などの仏教用語も難しい。通訳する私も即座の意訳はおぼつかない。法話の手話通訳は内容が分からなければ意味がありません。それには通訳者自身が仏法に明るくなければならないということに気づきました。
■「帰依の会」
そこで、聾唖者も手話通訳者も一緒に仏法を学ぶための勉強会「帰依の会」を私の自宅で始めました。会を続けてきた二十余年の間に、聴覚障害のある八人の仲間が亡くなりました。不思議なことに、全員お浄土を理解して亡くなりました。聾唖者は周囲からの雑念が入らない分、いったん「仏様は私を抱いてくださる」と分かると、健聴者である私などが到底及びもつかないような美しい素直な気持でスカッと心の中に入るのです。そのような体験を重ねるごとに、この活動をやっていて本当によかったと感じるようになりました。
私の一番の願いは、手話通訳者を介するのではなく、自分の法話を自ら手話でできる仏教者が出てきてほしいということです。さらに聾唖者が生活し、死んでいくそれぞれの地域に「帰依の会」のような仏法を学ぶ場所があれば、聾唖者もまったく違った生き方ができるのではないかと思っています。
■相互理解に向けて
聾唖者と接する上で何よりも大切なことは、この人たちの置かれた立場を理解することです。健聴者はテレビやラジオなどを通じて世界中の情報を簡単にキャッチすることができますが、聾唖者は手話が見えなければ情報を得ることが難しい。この差は計り知れないものです。
& 私たちは聞くこと、話すことのできる幸せに感謝しなければなりません。そして同時に、幸いにも聞こえる耳で、話せる口で、自分は何を聞き、何を話してきただろうかと懺悔する。そのようなことから、聾唖者への理解が育まれていくのではないでしょうか。
さらには、同じ日本人同士として、たとえ簡単であっても、聾唖者との手話によるコミュニケーションが当たり前にできるような社会になっていくことを願っています。
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