■「宗教者九条の和」では仏教者だけでなくキリスト教など、諸宗教の人たちが集まって行動していますね。
村中活動を通して感じたことは、既成仏教が保守的である一方、キリスト教徒の活動は活発で、社会に開かれた教会を形成していること。一般の信者が立ち寄りやすい雰囲気を教会が持っている。寺院と社会とのつながりは仏事だけで、日常的なかかわりが希薄となっています。
■仏教者に求められることは。
村中昔と今とでは、僧侶としてのスタイルが変化していますが、形が崩れると心が崩れます。宗教や文化が学術化、教勢が機能せず、法儀や儀礼だけになっている寺院のあり方に問いかけがなく、教学の方向と寺院の教化とが乖離(かいり)しています。それらの視点から宗教の役割が見えてくるのではないでしょうか。
■社会との接点から宗教の役割を見るのですね。
村中「現憲法は押しつけられた憲法だ」という、歴史を無視した考え方が横行しています。明治の廃仏毀釈では、国家神道を国の基本に据え、仏教やキリスト教などの宗教者を抑圧しました。しかし、この国体観念は敗戦により破たんしました。教育の見直しもいわれていますが、宗教教育を国家が主導するのではなく、家庭で行なえばよいのです。寺院を通して各家庭から。
■教育に関連して愛国心も問題となっていますね。
村中国家が指し示す愛国とは「敬神愛国」の愛国です。畏敬の念は確かに大切なことですが、それを愛国という言葉で表現することが危惧されます。
■愛国の延長に靖国神社問題も。
村中戦後の寺院復興は、戦災者の慰霊や戦死者の追悼という行為が大きな助けになったことは事実です。戦災遺族の追悼への思いは切実なもので、自然なものです。しかし、靖国神社に国がかかわって、過去の歴史を再び押しつける必要はありません。
すまなかったという意識で英霊を祀るのであれば、国が靖国神社だけを護持する必要はありません。すでに諸地域の寺院や神社でも、まんべんなく行なわれているのですから。
■他宗教の人々との連帯で思想的な問題はありますか。
村中宗教論はそれほど違うわけではありません。その宗教が育った風土の違いだけで、人の思い、心情は共通です。説明の仕方が変わるだけで、宗教的な優劣はありません。
■仏教が問題とする課題とは。
村中学問の分野でも、自己をとらえるということが課題になっていますが、我なるものを知るには、我とは違うものを認めなければ他が分かりません。それを教えるのが仏なるものです。
では菩薩という行為はどう働くのか。それは、自利がまずあって利他に転ずるのです。そういう行為として菩薩が表わされています。今の仏教は業に触れるところが少なくなり、せいぜい自業自得の言葉ぐらいですが、生身の人間の姿を見据えて、自己の行為とのかかわりを明確にする業報の考えが必要です。脳死など生命のことや生死観にもかかわっていく。心理学などの学問は、人間の意識を学術的に説明しますが、仏教はそれだけではなく、生身の人間をどうとらえるのか。そこが抜け落ちた学術の仏教になっている現状を、もどかしく思います。
■宗教は政治とかかわるべきではないとする意見もありますね。
村中政治の問題は生き方の問題です。政治の問題を論議し宗教の立場からも発言できる、そういう機運をつくりたいですね。明治初期の仏教が厳しく仏教を考えたあり方から見ると、現代は非常に微温的です。しかも、出家仏教のように政治にかかわらないという思いが強くあるのではないでしょうか。確かに修行の身であれば、世俗とかかわらないという面があります。しかしそれだけでは、利他につながる縁をつかめていないのではないでしょうか。
伝教大師の教えで言えば、(籠山の)十二年間の修行期間は必修です。しかしそれは、山を下りることが前提です。利他の方向に転ずるということが、山を下りるということです。その利他への転換を見過ごしているのです。修行に専念することは理想ですが、人間は世俗や日常と常に触れ合うことが必要です。それには、日常の仏教の姿を考えればよいのではないでしょうか。