■これまでの議論の成果は。
小森今まで詰めてきたのは、「浄土」というものが実体的なものではないことを確認した上で、なお仏教の教えが人間のありようにとって重要であると、お互いが確認していることです。
実体でないならば、観念の空想と思われかねないが、「浄土に往生を遂げる」という抽象的概念が、人間生活の具体的事実にどう結びつくか。それを領解して、自分の生き方に引き取って考えていく。それには大きな意味がある。私が『業・宿業観の再生』を執筆したのは三者懇が始まる前ですが、その延長線上で異論なくお互いの論理の組み立てができた。
■その「業・宿業観」とは。
小森「業」は、かつていわれたような前世の因縁ではなく、人類が今まで作りに作りたる足跡の集積のこと。人間の一挙手一投足は自分が行なっているように思えるが、それは人類が長い歴史を歩む途中の現在的過程で行なっているもの。
かつては何事も前世の業、前世の因縁だとして「業」は諦めを強く打ち出していた。部落に生まれ差別を受けるのも前世の業だと説かれた。そうではなく人類が歩んできた足跡を、その時々の人々が現在的に肩に背負っている。社会の大きな矛盾もそう。だから部落差別は、差別をしている者と差別を受ける側との全体の人類の営みの問題です。
■そのように考えられた経緯は。
小森これは親鸞聖人がこうおっしゃったとか、浄土三部経にこうあるとかの水準ではなく、人権運動、その中で私の核を成すのは解放運動ですが、その必要に迫られて論理を展開した。
仏教的な智慧に対して、私は現在の社会の動き、解放運動の観点から方向性を見つけて提示した。皆さんも仏教の思想的な正統性、整合性に照らして判断をしてくれるようになった。
そうすると仏教は当然社会性を持たねばならず、今までの業論を乗り越えなければならなくなる。その社会性と仏教の大慈大悲心が一致し、思想体系が盤石になってきた。
この業論に対し、経典にはそう書いてないと反論する人がいないのは、仏教界が古い体質から脱皮しかけているからでしょう。私は、いささか仏教界に貢献したのではないかと自負しているんです。
■これからの議論は。
小森今は煩悩論です。「煩悩具足」「煩悩熾盛」「煩悩成就」という言葉がある。安芸、備後両教区は三つとも同じ意味だと言う。私の解釈は違い、そこに変化の相を見る。
人間が人間である限り、煩悩を完全にぬぐい去ることはできない。その意味では、煩悩は変わらない。では煩悩を持つわれわれ凡夫は、いかにして弥陀に救われるか。
そこには救われる内的状況の変化が必要になる。煩悩は常に「具足」していますが、それが燃え盛るような「熾盛」の状態を経て、ついには究極に達し、大いなる宇宙・自然の法則を領解して、生かされていることを覚知する「成就」に至る。それは救われる者の主体の水準の変化であり、他力の働きがそう到達させるともいえる。
両教区は、経典の中に直接そう説明するところがあれば納得するが、それがないから、そう解釈できないという。でも、それでは説得力がない。
経典が示すように、弥陀の誓願があまねく人々を照らすならば、皆が一様に救われなければならない。しかし現実には救われる者と救われない者がいる。
仏から見れば、すべて凡夫は同じに見えるでしょう。だが一番救われるのに近いのは「煩悩成就」の状態の凡夫です。
この考え方も何年かたったら、仏教界に貢献するのではないか。業論に次いで、煩悩論も書くつもりです。
■解放運動を指導される中でも、ご自身の思想が社会科学やマルクス主義一本にならなかったのは、根本に仏教があるからですか。
小森マルクス主義の全体像にはおおむねうなずくけれど、人間論については仏教の水準にはるかに及んでいない。だから人間を深く掘り下げるためにも、仏教の教えを何とかものにしたい。同時に、仏教には少々困った理論もある。
例えば法要では『無量寿経』を漢文で読むから分からないが、現代語で言えば「めくら」「おし」と今も平気で読んでいる。皆、腹を立てますよ。だから仏教を理論体系として、整合性あるものにしなければならない。
■仏教界がなかなかそうならないのは。
小森やはり経典の中の悪いところに影響されるからです。お釈迦さんが完全とは思わないが、たとえ完全に近い人だったとしても、仏典は数百年後に「如是我聞」で書かれたもの。
だから仏教教団の全体合意で「ここは駄目だ」「ここは誰かが間違って書いた」といえる体質にならないと、本当の思想展開はできないですね。
■仏典の言葉にとらわれ過ぎていると。
小森思想は言葉で表わさざるを得ないが、言葉はかなりおおざっぱなものです。同じ言葉でもまったく反対の意味にとれる場合もある。それを乗り越えるには、人間社会の現実の動きとの整合性を検証しなければなりません。
被爆者問題とか、ハンセン病問題とか、部落差別とか、今回のビルマのような国際社会の問題とかに触れれば、乗り越えられます。行動がないと、やはり駄目ですよ。
仏教はすべてを含む人間観、世界観、宇宙観であり、深い思想であるがゆえにちゅうちょする。仏教界が、その深さを行動的なところにまで高めれば立派なものになる。夾(きょう)雑物を取り除き、本当の意味で仏教が整合性あるものになればと願います。