■最近取り組まれている「エコ・フィロソフィ」とはどのような思想ですか。
竹村「エコ・フィロソフィ」は、人間の生き方を自然環境や未来の世代との関係において探究するもので、ノルウェーの哲学者アルネ・ネスの提唱した「ディープ・エコロジー」などがその例です。ディープ・エコロジーは、人間優位の立場の否定や自然の権利の尊重などを掲げ、自己のあり方を深く掘り下げていく哲学的なエコロジーです。それに対しては、社会的視点や具体的な実践に欠けるという批判もあるのですね。
けれども地球環境やサステイナビリティの問題を哲学的・思想的に考えていくと、やはり直接種々の社会問題に向かう以前に、人間は本来何を目指し、何を求めて生きるべきなのかを根源的にとらえ直すことが必要だと思うのです。
宗教的な「自己とは何か」の追究が、実は「自然とは何か」「世界とは何か」の究明と一つになっているところに、エコ・フィロソフィを見いだしていきたい。そのような根本から、今日の混迷した問題を考えていきたいと思っています。
■東洋大学で発足された「エコ・フィロソフィ」をめぐる研究組織について。
竹村昨年度から「サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)」という四年計画の学際的プロジェクトが本格的に始まりまして、現在は東京大学を中心に五大学六協力機関で「サステイナビリティ学」という新しい学問の創造を推進しています。ほとんどは理科系ですが、東洋大学は唯一、人文分野から協力機関として参加することになり、独自に「東洋大学エコ・フィロソフィ学際研究イニシアティブ(TIEPh)」という組織を立ち上げました。
このTIEPhには、「自然観探究ユニット」「価値意識調査ユニット」「環境デザインユニット」の三つがあり、主に文学部、社会学部の研究者が参加しています。これらのユニットを統合して地球環境ないしサステイナビリティに関する哲学思想を究明し、エコ・フィロソフィを一般の方々にも受け入れられるような目に見える形として打ち出すことを目標としています。日常的には、公開講演会やシンポジウム、研究会を行なったり、年度ごとには報告書を出して論文を発表したりしています。
■「共生」という課題にも並行して取り組まれていますね。
竹村東洋大学ではこの数年来、「共生学」という学問をつくろうという試みが学長のリーダーシップのもとに始まっています。自然との共生、異文化間の共生等、共生がうたわれる諸問題を統一的に扱う共生学の構築を推進するため、「共生思想研究センター」も昨年発足しました。
本学のサステイナビリティ学やエコ・フィロソフィのプロジェクトは、この共生学の追究の延長上にあります。サステイナビリティとは次世代の人々にいかに豊かな地球環境を残していくかという問題ですから、未来の見知らぬ他者とわれわれがどう共生するかという問題とも考えられます。
もちろん未来の他者だけではなく、同時代においても、苦悩している見知らぬ他者と自己の間に真に共生が実現しているのか、といった問題もあります。そういう意味では共生思想とサステイナビリティは共通の基盤を持っていて、人と人、人と自然の根源的な関係はどうあるべきか、それをどのように修復していくかが問われています。
■地球環境の破壊が急速に進む中、近代合理主義的自然観に代わり得る東洋の伝統思想、特に日本仏教が育んできた自然観の再考が必要とされていますね。
竹村仏教ではそもそも「依報」と「正報」のように、生まれた環境世界と個の身心とは切り離せないという考え方があります。さらに日本天台や真言密教では、草木国土のすべての存在は仏である等と説かれ、そこに個体と自然の関係は本来どのようなものであるのかの論理的な究明がなされてきました。自己は普通思っている自己だけで完結するのではなく、個の身心と環境世界とが相互に交流・交渉し合うその総体が本当の自己であるという見方は、仏教の根本にあったわけです。
そのように自然観、人間観において非常に豊かなものが仏教には存在しているわけですから、それぞれの法財を時代の中で吟味・検討して、生かせるものを生かしていくことが必要ですね。仏教の「縁起」の思想からしても、現在のみならず、未来の地球や他者のことを考えると、おのずからサステイナビリティや環境問題に真剣に取り組まざるを得ないでしょう。本格的な取り組みが、仏教各宗にも出てくるべきだと思います。
■幅広く仏教の研究をされていますが、現在はどのようなことに関心をお持ちですか。
竹村今、関心があることの一つは、日本仏教の極めて大きな流れである浄土教から環境問題に取り組む思想的基盤をどのように打ち出すか、ということです。浄土教ではそもそも「厭離穢土・欣求浄土」で、この世界は穢土、忍土(娑婆)であることから、極楽浄土に往生することを願うものでしょう。そこには個々人の救いはあるかもしれませんが、ではこの地球はどうなってもいいのかというと、やはりそうはいえないわけですね。
浄土教の救いから現実世界へ出てくる筋道をどのようにつけるかというのは、非常に大きな課題だと思います。これは「往相」に対する「還相」の問題ともいえます。阿弥陀仏の救いが、この世の問題・課題に大いに関与していく力を発揮し得るために、信成就したらどうなるのか、また還相というものは一体どのように考えられるのか、そういうことにも取り組んでみたいと思っています。