■お寺に入ってから何が思い出深いですか。
張堂とにかく周りが一変したことですね。バブルの時は市にも予算があって、小学校から寺への石畳を造ってくれた。水車小屋も一億で復元して、湧き水で回っています。そばをつくろうという運動も、行政を動かしたと思います。
ただ何もしないでお寺然としていたら、また違ったことでしょう。
■昔の深大寺は、どんな感じだったのですか。
張堂昔はこの辺りは人が少ない農村地帯でした。そのため、明治のころ鉄道を引く話が出た時は、もっと深大寺に近い所にする予定だったそうです。もしそうなっていたら吉祥寺のような繁華街になったかもしれません。しかし周辺の養蚕農家が、「汽車の煙が出るとお蚕さまに良くない」と言って反対して今の場所になった。
戦前のある時期には、東京府がこの辺りを買い上げて、世田谷の砧公園のような緑地帯を造りたいと言ってきた。当時は一面やぶでしたから、今でも「あれは良い話だった」という人がいます(笑い)。
昭和二十五年に、毎日新聞が主催した「日本観光地百選」というのがありました。全国の観光地の人気投票だったのですが、当時の総代さんが切れ者で、土地を売ったお金で二十数万枚のはがきを買って投票したところ、十三位になった。これが戦後、深大寺が有名になったきっかけだといわれています。
この百年を見ると、本当に運命的な歴史の流れを感じます。
■住職ご自身はこちらでのお勤めが長いそうですが。
張堂私は福島から出てきて、十八歳の時にここから大正大学仏教学科に通いました。そのころは寺の中も人が居なかった。住職と私のほかは一、二人でした。塔婆書きなどの仕事は夜しました。若い者にこのことを言ったら、「今は夜に仕事なんてしない」と言われました(笑い)。
特にお世話になったのは先々代の谷堯昭住職。そのまたお師匠さんが谷中天王寺の住職で、大正大学学長も務めた福田堯頴師。希代の碩学だったそうで、亡くなった時に東大の医学部で脳を解剖したそうです。厳しい人で、それがまた先々代に受け継がれたので、私にも厳しかった。でも厳しければ厳しいほど懐かしく思う気持もあります。
■そばがお好きだそうで。
張堂戦後一軒だけ残った深大寺でそばをつくっている農家の檀家さんがいらしたのですが、そこからもらった粉で打ったそばを食べて感激しました。谷前住職も"これこそが深大寺そば"だとおっしゃって。翌年に深大寺そばをつくろうという声が地元から起こり、私が会長となって「深大寺そばをつくる会」が発足しました。
皆さんおそばには興味があるようで、二十年前にそば人気が始まる先駆けのような役割を果たしました。取材にもたくさんいらしたので、その効果は大きかったと思います。
収穫したそばを振る舞う会が十二月にあり、すでに二十二回を数えます。鎌倉・浄土宗大本山光明寺の宮林昭彦法主、浄土宗大本山増上寺の藤堂恭俊法主(当時)、天台宗妙法院門跡の大久保良順門主(当時)さんらが宗派を超えてお越しになりました。
大久保さんなどから、詩人の大岡信さんが常連だと知って「あの会は大したもんだ」とのお言葉を頂きました。
今の市長さんも、最優先で来てくれています。そばを食べることはもちろん、人の輪ができるのを楽しみにしてくれています。
■東国随一という白鳳仏について教えてください。
張堂倚像といって、腰掛ける姿の珍しい釈迦如来像です。寺の本堂が幕末に焼けた二年後に再建された元三大師堂で、明治四十二年に発見されました。横になったままほこりをかぶり、そんないわれのある仏像だということが分からなくなっていたのです。
当時政府は文化財保護に力を入れていた時で、調査にやってきた考古学者の柴田常恵がお堂をのぞいたところ、たまたま見つけたのです。大正二年に当時の国宝に指定され、文化人の間で注目されました。現在は重要文化財です。「奈良にあったら国宝だよ」と言ってくれる人もいます。関東のものは大したものではないという先入観があるのではないかと思ってしまいます。
去年、模造を二体造ってもらいました。一体は本物と同じ漆黒の像で、もう一体は造像当時の姿に復元してもらいました。全身金箔で、千三百年前の人々はこのお姿を拝していたのでしょう。
■どこで造られたものでしょうか。
張堂天台宗に改宗する以前の法相宗時代の御本尊だったのだろうというくらいで、どこからいらっしゃったのか分かりません。しかし最近成分を調べた結果、銅が九九%、スズが一%。純度が高い極めて珍しいものだと分かりました。この結果が手掛かりになるかもしれません。
■晋山の記念には何かなさるのですか。
張堂白鳳の仏さんの姿を見てもらおうと、掛け軸を作って、記念品にさせていただきたいと思います。檀家の方でも、このような立派な仏像があることを知らない人がまだまだいらっしゃいますから。