宮元啓一・国学院大教授
■高校時代にインド哲学や仏教学を志したとお聞きしましたが。
宮元わたしが通った東京教育大学附属高校(現、筑波大学附属高校)の図書室にはインド哲学の本が数冊ありました。場違いなほど難しいサンスクリット語が入ったものもありました。この学校は中村元先生の母校で、おそらく中村先生が寄贈してくれたのではないかと思います。高校一年の秋、中村先生の本に触れ、こんなに面白いジャンルがあるのかと感銘を受けました。インド哲学や仏教の書籍を読み、将来、学者になれるにしろなれないにしろ、ライフワークにしたいと思いました。中村先生の難しい本が高校の図書館にあったというのが奇跡でした。
■中村先生からはどのようなことを教わりましたか?
宮元中村先生はいつも「インド学はエジプト学ではあってはならない」とおっしゃっていました。特に哲学は「生きた思想でなくてはいけない。ただの文献学者であってはいけない。文献学は必要だが、それで終わってはいけない。そこから生きた思想を展開しなくてはいけない」と。わたしも若い時は文献学に励み、いわば滑走路を造ることに努力しました。しかし目的は飛行機を飛ばすこと。粗々(あらあら)滑走路が出来上がったら飛ばさなくてはいけない。十年前から試験飛行みたいなことをしてきました。これからどんどん自分の哲学を世に問うていきたいです。
■ヴァイシェーシカ哲学の漢文論書『勝宗十句義論』について。
宮元形而上学的に徹底した実在論を主張するヴァイシェーシカ哲学というのはテクニカルターム(専門用語)が多く、定義が非常に厳密なので難しい。全体像をつかまず部分だけを読んでも分からない。かといって理解するには部分から読み始めなくてはいけない。これはなかなか矛盾していますが、長年の研究を通して、ヴァイシェーシカの考え方が分かってきました。すると漢訳からサンスクリット語に訳すことができるようになったのです。
特に玄奘訳はサンスクリット語を一語一語訳す直訳主義ですから、漢字が並んでいる所に(サンスクリット語の)テクニカルタームを当てはめていくと、漢文がサンスクリット文になる。こうすることで、『勝宗十句義論』には誤訳、写誤とおぼしきものが数多くあるということが分かりました。ヴァイシェーシカの研究を始めたのが一九七〇年で九六年に本を出版しましたので二十六年かかってしまいました。
こうした研究を通して、ヴァイシェーシカ哲学を生きた哲学として世に紹介したいと思っています。
■近年、精力的に一般書を刊行されていますね。
宮元国学院大学で西洋哲学の学生に教えていますが、テキスト選びに非常に苦労しました。このことがきっかけとなり、自分で翻訳しテキストを作ることにしました。世の中ではインド哲学に対する認知度が非常に低いので、ともかくサンスクリット原典から、しっかりとした訳に解説を加えたものが必要だと思いました。
世間的にまだまだインド哲学は難しい学問のようです。これほど易しいものはないと思うほどかみ砕いて教えているのですが、それでもやはり難しいと言われる。ですから間違ってもわれわれの専門用語は使えません。誰にでも分かるような言葉で、つまり自分の言葉で語らなくてはなりません。
日本では学者の業績というと、啓蒙書のようなものはあまり評価されない傾向にありますが、一般の人たちが分かるような本を書くことこそ、学者の務めだと思っています。ですから、ヴァイシェーシカ・スートラのチャンドラーナンダ註付きでも二千六百円という定価にしました。それぐらいに収めないと、なかなか買ってもらえないからです。
■独自の視点から仏教に関する著書も多く書かれていますね。
宮元いわゆる初期仏教と部派仏教は違うし、大乗仏教はまた違う。中村先生もおっしゃっていましたが、最初期の仏教で無我は説かなかった。中村先生の力をもってしても一向に広まらなかった説ですが。五蘊無我は原典では五蘊非我です。諸法無我ではなくて諸法は非我なのです。中村先生はちゃんと、そう訳されている。
無我というのが出てきたのは部派仏教になってからです。理論的な無我説が出てきたのは紀元前二世紀の『ミリンダ王の問い』。その後、大乗仏教では龍樹になり、アートマン(我)ではなく、スヴァバーヴァ(自性)という語を使うようになった。龍樹は二十歳になるまでバラモン教の教育を受けた大秀才だったわけですから、アートマンがないとは言いたくなかったのでしょう。そこで自性がない、つまり空だというようになったのでしょう。
■今後の抱負は?
宮元まだ文献学として手を付けていないのがヨーガ哲学です。実は今までは避けてきました。ヨーガ・スートラは文法的には易しい。けれども、体験してみないと分からないことが書かれているので非常に難解です。文献学だけではヨーガは攻略できないと思います。
そこで大きな頼りになるのは昔行なった坐禅や、現在簡単にですが行なっているヨーガ、そして佐保田鶴治先生が書かれたヨーガ・スートラの訳と解説。インドの道場で徹底的に修行されてきた佐保田先生の体験を基にした解説が付いているので、大いに助けになります。今後、本格的にヨーガ・スートラを読んで、多くの人に解説を加え紹介したいと思っております。
渡邊寶陽・立正大名誉教授
■宗教研究・教育界の充実に長年尽くしてこられました。
渡邊思いがけない受賞で驚いていますが、もう少し頑張れという激励だと受け止めています。これからは特に、どうすれば教育・研究を持続させることができるかという問題に取り組まねばと思っています。これは日本仏教各派に共通する課題です。
戦後の日本の大学は学生が納める学費などでほとんどを賄っています。収支バランスが崩れれば直ちに廃校にならざるを得ないシステムです。仏教に関する教養を育み、それを支える専門学者を育成する仏教系の学部においては、非常に心もとないシステムです。仏教界全体で教育・研究を支える仕組みができたらと思いますが、さらに考えを深め健全なシステムを提言したいと思っています。
■宗門の教学振興については?
渡邊伝統教団は宗派ごとに教学の伝授を宗門大学に委ねてきました。それは公的教育・研究機関に、仏教思想の教育・研究を実質的に委ねるということであり、正しい措置だと思います。
ところが最近は、寺院運営の具体的方途が求められたり、教義や思想についても成果が上がるような手法が期待されているように思われます。おそらくそれは日本社会を覆う成果主義の反映ではないでしょうか。
今、中国でも欧米でも熱心に仏教研究に取り組んでいる人が相当数おられます。それもインド仏教やインド哲学にとどまらず、日本仏教が諸方面で研究されているのです。もはや日本仏教は自国で幽閉するものではなく、世界の文化に開かれているという事実を率直に受け入れる必要があると思います。
■東方学院では広く一般の方が学んでいますね。
渡邊東方学院には仏教信者だけが集まっているわけではありません。キリスト者だけど日本人として仏教を学びたいという方もいらっしゃって、これこそ中村先生が肌身で感じておられた人々の仏教への関心が引き出されているのだと思います。実際に教室で皆さんと『法華経』を読んでいると、ご一緒に拝読する喜びを素朴に味わうことができるのです。これも中村先生の周到な学びの精神の影響かと感じ、研究でももう一頑張りせねばと思えてきます。
やり残している研究テーマはたくさんありますが、中でも「日蓮仏教における仏陀尊崇の意義」について、ある程度のまとめをしておきたいですね。通常「本尊論」という枠組みに配列される内容ですが、先師の解釈史にとどまらず、日蓮聖人の深層に迫ってみたいと思っています。