■現代社会の中で、阿闍世の物語はどんな意味を持ちますか。
芹沢『涅槃経』も、『教行信証』も、今の時点からリアリティーがある読み方ができなければ意味がないと思います。
二〇〇四年十一月二十四日、同じ日に茨城県の水戸市と土浦市で、両親殺しが起きた。私はかつて牛久市に住んでいたことがあり、身近な二つの町で起きた事件だったので衝撃を受けました。
ただ単に衝撃だったというだけではなく、今後同じような事件が頻発する予感がありました。そして、私が『親殺し』(NTT出版)の中で取り上げためぼしい事件だけでも、この五年間に十数件起きた。実際に子どもが行動にまで至らなかったことを含めると、同じような思いを持つ子はもっといたし、今も少なからずいると考えられます。
そこから何が見えてくるか。それぞれの親殺しには、いろんな要素が絡んでいると思いますが、一点において共通しています。それは親殺しが起きる前に、子殺しがあったこと。つまり実際に肉体の殺害が行なわれたわけではなく、存在論的な子殺しが前段階にあったということです。
■阿闍世による父王殺害も、子殺しが先行していたわけですね。
芹沢「未生怨」という言葉に初めて出会った時の戦慄を今も覚えていますが、その意味が最近の一連の親殺しを通じて一気に理解できた気がします。つまり生まれる以前から、親殺しを宿命とする因を埋め込まれた存在ということです。
阿闍世は出生前と出生時の都合三回親に殺された。一回目は父の頻婆娑羅王が結婚前、狩りに出掛け、獲物が捕れないことに腹を立て、偶然出会った仙人を殺した。仙人は復讐を誓って死ぬ。この殺人は二回目の殺人と連関します。二回目は、頻婆娑羅と韋提希夫人に子どもが産まれず、占い師に尋ねた。すると三年後に山中の仙人が死に、その生まれ変わりで子どもができると言われる。二人はその三年が待てずに仙人を殺すが、仙人から「生まれ変わってお前を殺す」と告げられた。三回目は、予言者から「必ず災いを起こす子が生まれる」と言われ、出産時に母の韋提希が高殿から産み落とした。それが阿闍世。指を折っただけで済みましたが、殺人未遂です。
現代の親殺しを調べていくうちに、子殺しの視点を持たないと、阿闍世を理解できないと思いました。
■善き阿闍世が、悪の提婆達多にそそのかされて、父王を殺したという理解がありますが。
芹沢そういう理解は基本的に間違っています。親殺しの因を埋め込まれた阿闍世だからこそ、提婆達多と引き合った。単に"親を殺した阿闍世が後悔して、耆婆に導かれ、釈尊に出会った"という解釈は通俗的です。むしろ五逆を犯すことも、阿闍世の救済につながる行為だった、という見方が必要です。
でも普通、仏教学者は、父王を殺すところを起点にし、お経を五逆を犯した者が、どのように救われていくのかという見方でしか読んでいない。それは『涅槃経』の理解としても、『教行信証』の理解としても、違うと思います。
■親殺しが救済につながるわけですか。
芹沢そうです。他の人を殺しても、阿闍世に慚愧の心は起きなかった。だが父殺しによって、初めて阿闍世に慚愧が起こった。親殺しは阿闍世にとって、救済の最初の関門です。
一個の人間が、自分ではどうしようもない状態の中で、悪を埋め込まれてしまった。それが救われていくとは、どういうことか。
親殺しの前に子殺しがあった。この見方は私なりの発見ではないかと思う。もっとも、お経に書かれていますから、ある意味で再発見ですが。
■今回の創作劇は、そのあたりが焦点の一つですね。
芹沢そこを焦点にすれば、親子の物語になる。親殺しの核は親子関係、家族関係です。そうすると、今もたくさんの阿闍世がいるという見え方ができる。いわゆる非行少年を見ると、家族関係がうまくいっていない。家に寄りつかず、悪とつるむ。これらは、阿闍世と提婆達多との関係の縮小版という理解に導かれるのです。
でも親殺しには、提婆達多という契機が必要になる。親鸞も「提婆尊者」と尊称しているように、提婆達多は非常に重要な役割を果たします。
親鸞も親子の問題として、阿闍世の問題を取り上げたのではないか。息子の善鸞については、よく分からないことが多いようですが、親鸞を裏切った。それを親鸞は「父を殺す行為だ」と述べています。だから親鸞も気付かないうちに、善鸞を子殺しの状態に置いていたのではないか。親鸞は大変な宗教家ですが、家庭的にどうだったかといえば、決して一致しないんじゃないでしょうか。
二千五百年前の頻婆娑羅と阿闍世の関係、そして七百五十年前の親鸞と善鸞の関係、さらに現代の親と子の関係。その三つには構造的な同一性がある、という仮説は持っていいと思います。それを踏まえて、原作『阿闍世王』を構成しました。
■原作には、地獄に堕ちた提婆達多を、阿闍世が「提婆は自分だ」と言って、提婆達多と一緒に地獄に堕ちようとする場面が描かれているそうですが。
芹沢その場面が書けた時、阿闍世の孤独が分かったと思いました。同時に、提婆達多に対する自分の思いが書けた気がしました。
たとえ信仰の種がない一闡提であっても、救われる。仏教学者の中には一闡提であっても、少しでも信仰の心を持てば、一闡提ではなくなるので救われるという理解があるようですが、この解釈は、私にはものすごくつまらない。
仏教徒でなければ救われない、というのは納得がいかない。それだと「衆生」の概念が生きてこない。釈尊も、親鸞も、たとえ一闡提のままであっても救われると言っている気がして仕方ありません。それが「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の意味ではないでしょうか。
三月上旬に広島で公演
◇創作劇「善人なおもて往生をとぐ―親鸞 わが心のアジャセ―」 主なキャストは、アジャセが川ア麻世、ビンバシャラが中山仁、イダイケが音無美紀子の各氏。脚本・演出は齋藤雅文氏。公演は、三月四日午後二時、五日午前十一時と午後四時、六日午後二時。場所は広島市中区白島北町のALSOKホール。S席五千円、A席三千円。