■知覧はいつから特攻基地に。
太平洋戦争が勃発した直後、昭和十六年十二月二十四日に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校した。この日を境に、それまで静かなたたずまいの城下町だった知覧は練習機の爆音に明け暮れる。この飛行場が三年後、特攻基地になろうとは町民の誰も思わなかった。戦局の悪化に伴い本土最南端の陸軍特攻基地となった。
■知覧特攻平和会館ができた経緯は。
知覧町は、昭和三十年に知覧飛行場跡に特攻隊の人々の殉国精神を顕彰する特攻平和観音堂を建立し、観音像を安置した。そのころから恒久平和を願う事業が始まり、昭和五十年に知覧公園休憩所の一角に特攻遺品館ができた。八畳一間くらいの小さな遺品室だったので、年々増える観覧者や遺品収集で手狭となった。そこで、まちづくり特別対策事業の一環として、昭和六十二年に同会館が新築された。
■同平和会館の設立に、ある人物がかかわった。
愛知県犬山市の役所課長だった板津忠正氏が、五十四歳で早期退職し、戦没者名簿を頼りに全国行脚して特攻隊員の遺影や遺品をこつこつ集めた。集めた遺品は、すべて特攻遺品館に贈った。その縁で昭和五十九年に事務局長になり、四年間、知覧に単身赴任、昭和六十二年に平和会館開設にこぎ着けた。そして平成七年に千三十六人の遺影を同会館に飾ることができた。板津氏は顧問に退いた後も、特攻の経験と平和の尊さを全国各地で講演している。
■板津氏は特攻の生き残り。
板津氏は昭和二十年五月二十八日、知覧飛行場から沖縄に向け出撃したが、搭乗機の故障で帰還した。四十年代半ばに、若い特攻隊員から母のように慕われていた「富屋食堂」の鳥濱トメさんと知覧で再会し、特攻隊員の遺族捜しと遺品集めを始めた。
■富屋食堂は映画「ホタル」の舞台になった所ですね。
富屋食堂は昭和十七年に陸軍の指定食堂になり、飛行場の兵隊さんがたくさん来る店になった。トメさんは特攻作戦が始まると、特攻機の見送りを娘さんと共に続けた。隊員が憲兵の検閲を避けるため、トメさんに託した手紙を代理で投函している。特攻隊員をわが子のように面倒を見た。昭和二十七年、基地跡を訪れる遺族のために旅館も開業した。また当時の知覧町長に働き掛け、飛行場跡の一角に観音堂の建立を実現させた。平成十三年、富屋食堂が「ホタル館」として復元され、特攻隊員の記念館となった。
■戦争の不条理が平和会館を建立させた。
私の母や祖母たちは、米軍の艦載機からの襲撃に追われて知覧周辺の山林を逃げ回ったという。知覧高等女学校の人々や地元の人たちが、全国各地から集結した若い特攻隊員たちの兵舎の掃除や食事、縫い物、洗濯などの世話をし、出撃時は見送った。必ず死ぬことが分かった二十歳前後の隊員を見送るのは、筆舌に尽くし難い思いだった。二度とこのような思いはしたくない。特攻の史実を多くの人に知っていただき、特攻を通して戦争のむなしさ、平和の大切さ・ありがたさ、命の尊さを訴えることが、出撃基地のあった町の責務ではないかと、年配者から言われ続けている。
■いつ、平和会館に赴任されたのですか。
昭和四十九年に合併前の知覧町役場に入り、それから二十一年後の平成七年、四十四歳の時に、同会館の通算四代目(当初の職名は「事務局長」で二代、後に職名が変わり館長二代目)に就任した。その後十年して、通算八代目として再就任した。
■館長として心掛けていることは。
特攻隊員のことを美化するのではなく、その真情を正しく伝えることです。戦争末期、日本は悪化した戦局を挽回(ばんかい)するため、若い搭乗員を大量に養成した。彼らは早く一人前の飛行士になって、思い切り空を飛ぶことを夢見ていた。しかし、体当たり作戦を決行する。
死を前にしてもなお笑みを絶やさなかったといわれていますが、検閲を逃れて書き残した遺書の中には、戦争への疑問や祖国への忠誠のため家族、恋人、師友への愛を引き裂かれた苦しみを吐露しているものもある。彼らは偽らず心情と感謝の気持を遺書や遺稿に託して大切な人に最後の別れを告げている。
■同会館の「語り部」になる。
いまだに全国から特攻隊員に関する資料や戦史資料が集まってくる。その資料を二十四時間空調管理する収蔵庫が二月に完成した。館長職を辞した後も会館の"語り部"になる決意です。特攻には遺骨はなく、あるのは書き残された遺書のみ。彼らが自分の命に代えても守ろうとした本当の意味は何だったのか、それを伝えていきたい。