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| 時感断想 − 第5回 |
1、 迎え火と送り火 この優しき日本の習俗 |
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私は東京に住んでいるから、七月盆である。 最近はあまり見かけなくなったが、下町のせいだろうか、十三日の夕方には「迎え火」を焚く人がまだ残っている。今年も、近所のお婆ちゃんが道路に面した小さな玄関の前で、苧殻を焚いていた。仕事師の未亡人で、今お墓へお迎えに行ってきたんですよ、と言った。 今でも、地方に行けば、お墓へご先祖さんをお迎えにいくという習慣が残っている。提灯で足下を照らして家に連れ帰る。仏壇には野菜や果物などを供え、瓜と茄子に苧殻で足をつけて馬や牛にかたどり、乗り物に見立てる。 日本の民俗の優しい心であろう。 死者の霊魂があるのか、というような問題ではない。盆行事を支えている観念と情緒は、自分の追憶の中に生きている亡き両親や身内の人格へのやさしい心遣いである。私たちは生きているが、ある日突然に誰もそばに来て話しかける人がいなくなったら、淋しくて仕方なかろう。 それなら、座標軸を入れ替えて、死者の立場に立ったら、生きている身内が関心をもち、話しかけてくれなかったら同じではないか。死んだ人は寂しさを感じない? そういう次元の話ではなく、私たち生者の側からの死者への心配りなのである。 同時に、そうして死者に語りかけ、会話をすることによって私たちは死者との絆を意識し、死なれた悲しさをのりこえるカタルシスがある。現実の救いがある。 仏教の伝承はしばしばこうした民俗を、真の救いではない、本来の信仰ではない、という。救いの宗教的レベルが違うのは私も認めるが、しかし、その信仰と民俗とを二者択一の関係で理解し、民俗を切り捨てるのは誤りである。もしそうなら仏教は民衆の現実的な救いを拒否することになる。両者は相互補完なのである。 十六日の午前、このお婆ちゃんは送り火を焚いた。もと芸者さんらしく、着物の襟をちょっと粋にぬいて、黙って送り火を見つめている彼女の肩に爽やかな夏が匂っていた。 |
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