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| 時感断想 − 第10回 |
1、 情報社会と宗教 情報を断つことの功罪 |
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誰であったか、インターネットは隕石だといった。 その真意はともかく、それによって旧来のさまざまなものが蹴散らかされたことは事実だ。 そして、日々新たな(と思われている)多量の情報が、どんどん送られてくる。それで確かに、私たちの生活はいっそう便利になった。たとえば、ネット検索して、遠いその地方にしか流通していない商品をメール注文すれば、明日にも簡単に手に入るのだ。そうした実にケッコウな情報社会に遅れてはならじ、と、要するに私たちは必死である。 宗教も、社会とのかかわりの中にあるかぎり、こうした社会の移り行きを受け入れざるを得ない。あるいは、そうではなく果敢に受け止め、むしろそうした社会に打って出なければならない。というのが、ふつうの考えだと思う。 それに異論などない。しかし、それは宗教を多少なりとも「組織」としてみた場合の論理であろう。そうではなく、ひとりの宗教者に立ち戻った時、一体どうなのか――、ということを問題にしたい。このあたりが案外、置きざりになっているような気がする。 たとえば、「心一境性」という仏教語がある。これなど、あらゆる情報や刺激をカットする意味であることぐらい誰にでもわかる。わかるけれども、日々新たな情報を思い切ってカットできるかどうか。 それがどうも、できる・できないの問題ではないらしいのだ。 先日、ある歌人から興味深い話を聞いた。――ドイツでは教養深い文化人はテレビを持たない、と聞いて自分もやめた。何年か静寂なる時空を楽しんだが、そのうち、担当している選歌で、意味のよくわからない投稿歌に頻繁に出くわすようになったというのだ。 静寂はいいが、世の中の動向を知らねば、選歌も、そして、やはり作歌もできない――。ひとりの宗教人としても今、この隘路をどう歩くか、を問われているのだと思う。 |
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