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| 時感断想 − 第14回 |
1、 よみがえれ寺山 「親しまれる寺」目指す |
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平成元年に私は平安の丈六不動三尊等を護持する関東有数の古刹高幡山金剛寺の法灯を継承した。 寺は鎌倉時代既に十院不動堂と呼ばれた談議所で、国宝古事記等を収蔵することで知られる 大須観音真福寺の開山能信上人をはじめ、数多くの学僧が勉学にいそしんだ寺であった。 それ故中世以降、真言宗武蔵方の本拠として栄え、江戸時代には関東十一檀林の頭領格の寺院として その名をうたわれ、多くの学僧を輩出している。このような伝統ある寺に、在家出身で大学を終えてから 僧侶の道に進んだ私が選ばれたのは、異例のことである。 先代の秋山祐雅大僧正は昭和五年高幡山を継承した折、安永の大火で焼失した諸伽藍の復興と 五重塔の建立を発願し、五十九年にわたる在任中にそのほとんどを実現された。 私も、先師の例に倣いたいと思ったが、発願は身分相応であることが大切だと考え直し 「参詣の方々に親しんでいただける寺」を目指すこととし、その象徴的事業として「寺山の復活」に 就任以来取り組んでいる。 都立多摩丘陵自然公園の一角・高幡城址(愛宕山)を取り込む三万余坪の境内は、戦後の昭和三十年ごろまでは 素晴らしい緑を誇っていた。まろやかな寺山の稜線に沿って樹齢二百年以上の黒松の大木が百本近く立ち並び、 春には桜やつつじ、秋にもいろはもみじの古木が全山を埋めつくしてそれは見事な景観をなしていた。 また寺は野猿峠ハイキングコースの出発点にもなっていたので、春秋の土曜日曜には多摩横山を縦走する 数千人のハイカーで賑わっていたが、その後の高度成長や所得倍増計画・東京オリンピック景気などで 近隣の開発が急速に進み、多摩丘陵も住宅開発によってずたずたに切断され、あれほど親しまれた ハイキングコースも有名無実の状態になってしまった。 私どもの寺の周辺もその例外ではあり得ず、昭和四十年代半ばごろまでにすべて住宅に囲まれ、 緑は高幡の寺山だけになってしまったが、その寺山も内部は荒れ放題でとても人の入れる状態ではなく、 辛うじて明治四十三年に開設された山内八十八ヶ所巡拝路が踏み固められているのみであった。 |
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