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| 時感断想 − 第18回 |
1、 世界遺産への道程 砦構えず寺築いた武将 |
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はや、みちのくは木の葉舞う初冬の季節。義経ブームで格別賑わった 境内も静寂を取り戻してきた。 義経はさておき、目指すところは世界遺産本登録だ。平泉は年来、県や文化庁と緊密な連携を 保ちつつ、街の景観整備と必要な申請手続きを着々と推進中である。県内外各種団体からの期待も熱い。 支援の輪も大きく広がる一方だが、焦るには及ばない。当初から、平成十八年度の推薦申請、平成十九年度の 現地調査を経て、平成二十年六月本登録という年次計画なのである。 平泉文化は、いかなる視点から評価されたのだろうか。平成十二年十一月、文化財保護審議会に よる暫定リスト登載の報告に、 「平安末期に奥州平泉で、藤原四代にわたる約一〇〇年間に、藤原一族が都の文化を受容しつつ、 独自に発展させた仏教寺院、浄土庭園などの華麗な黄金遺跡群であり、わが国の古代から中世への過渡期における 地方文化の中で傑出した事例である」とある。 十一世紀末から十二世紀末にかけて、都では白河・鳥羽・後白河の院政期。平泉では恰も清衡・基衡・秀衡の三代に 符合していた。公家から武家への政権の過渡期、保元・平治の乱に次ぐ源平の争乱で、洛中の寺院多数は焼失し、 庶民は戦禍に加えて飢饉・地震・洪水で塗炭の痛苦を嘗めるほかなかった。方丈記は その迫真のルポルタージュである。 しかるに辺境の平泉は、黄金の産出と豊作にも恵まれた。中尊寺・毛越寺・無量光院が陸続と 建立され、人口は十万を超えて平和と繁栄を謳いあげたのである。 この明暗は何を示唆するのか。すべては清衡の決断から始まったと私は思う。彼は歴戦の武将で あったにも拘わらず、難攻不落の砦を構築して、怨恨を増幅する道を放棄したのである。 砦ではなく寺を!  武将としては、おそらく苦渋の決断だったに違いない。しかし彼がもし砦を選択していたら、 世界遺産どころではなかったのだ。 |
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