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| 時感断想 − 第21回 |
1、 わが歩みを思う 天草と函館 二つの故郷 |
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いま日本は、「人生八十年」といわれる長寿の時代を迎えている。昨今は、政治・経済問題 から教育・文化問題まで嫌なことばかりが多く、長寿であることがはたして幸せなのかとも思うが、私の場合、 もしもその歳まで生きられたとしても、残された年月は二十年に満たない。もちろん、それよりも長く生きられる 可能性もあろうが、逆に、明日さえ生きることができるという保証もない。定かならぬ残りの人生を、 この「濁世」の中でどう生きるか。折に触れて、過去の歩みを振り返りつつ、そのことが思案されるこのごろで ある。 私は、太平洋戦争開戦の一年ほど前に、父が晋住した九州・天草の小さな曹洞宗寺院に 長男として生まれ、「新制」の小学校に一期生として入学する歳までそこで育った。父は青年時代に、そのころ 「死の病」とまでいわれた結核を患っていた。しかも、戦局が日ごとに険しくなる戦時中である。「子供や弟子を 早く一人前にしなければ」という思いが強かったらしく、きわめて厳しかった。そのため、私は五、六歳のころ には日常用いるお経は一通り読めるようになっていたが、この生まれ故郷での思い出としては、空襲警報が 鳴るたびに裏山の防空壕に逃げ込んだことと、天草の美しい海で一度溺れて気を失いかけ、危うく兄弟子に 救われたことが、とくに強く印象に残っている。 しかし、昭和二十二年、父が現在、私が後を継いでいる龍宝寺(当時は高龍寺法務所)に 転住することになったため、北海道・函館に移った。家族と兄弟弟子を合わせて七人の、終戦直後の大混雑する 汽車を乗り継いでの長旅であった。とくに、生まれつき身体が弱かった妹には、これが随分こたえたらしい。 その数年後に他界した。いま思い返しても残念でならない。 こうして函館が私の第二の故郷となった。以来私は、日本が戦中・戦後の貧困から急速に 経済復興へと向かう時代、小学校から高校までの多感な青春前期を函館で過ごした。 中学・高校では、周りの「悪童」らに煽てられて生徒会長なども務めたが、これは、 告白すれば、何も「みんなのため」を思ったからではない。学校にいて、勉強(といっても、いわゆる 「受験勉強」ではない)や生徒会の仕事(雑談やお茶の時間を含む)をしている限りは、父も母も何もいわず、 寺の用事からも解放されたからである。けれども、考えてみれば、あるいはこのような日々の積み重ねが、 やがて研究者として生きていくことになる、その下地となったのかもしれない。 |
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このページの最終更新日
2006年04月17日