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| 時感断想 − 第25回 |
1、 神仏把握の普遍性 人の中で働き、人を超越 |
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キリスト教の根拠は、神が語り、行為したという出来事だとされる。したがって仏教とも ギリシャ哲学とも異なり、人格と歴史がキリスト教のキーワードとなる。歴史の始原と終末という展望を 西欧世界に導入したのはヘブライ的(ユダヤ教、キリスト教的)現実把握であった。 むろんこの把握は間違いではない。しかしこの見方は事柄の一面である。あまり 知られていないが――私はそれを明らかにしようと努めている――新約聖書には違った神把握がある。 「神は人のなかで働いて(人の)意思と働きを成り立たせる」というパウロの言葉がそれを示している (ピリピ二・一三)。パウロにはさらに「万物のなかで働いて万事を成り立たせる神」という言葉もある (Tコリント一二・六)。 まず神があって、その神が語り、行為するというのではない。神が働くというのでもない。 働く神が神である。それは火が燃えるのではなく、燃えている火が火だというのに似ている。太陽が輝くのでは ない。輝きとは別に太陽があるのではない。熱と光を放っているあの輝きが太陽だ。働く神が神だとは こういうことである。神が外にあって人間界に語りかけ、歴史を支配するというのではなく、働く神は人のなかで 働いて人の意思と働きを成り立たせるという。では神は人間のなかにしかないかといえば、そうではない。 信徒はキリストの中にあり、キリストは神のなかにある、とはヨハネ福音書に繰り返し語られることである。 神はすべてを超えている。 この神把握は、新約聖書と古代教会には明らかなのに、ローマ中心に発展した西欧の キリスト教では隠れる傾向が強かった。神が語り行為するという人格主義的な神把握が中心となり、表面に 出たのである。だからキリスト教の神は人格神だということになった。前述のように、これは事柄の一面である。 それだけではない。上記のような神把握が仏教と触れ合うのである。たとえば、 よく知られた親鸞の言葉によれば(『唯心鈔文意』)、阿弥陀如来の働きはこの世界に満ち満ちていて、 人の身におよび、心に及ぶ。信心とは如来の働きが及ぶ人の心の働きだという。これは信心によって、また 信心として、如来の働き(願力)が現実化することである。南無阿弥陀仏と無碍光如来の御名を唱えるとき、 信心にとって弥陀の働きが光として露わになることである。これは宗教哲学的には超越的内在とか内在的超越と かいわれることだ。しかし大切なのは、これが人間の経験であり心の現実であることだ。ここには個別宗教を 超えた人類に普遍的な現実性が語られている。 |
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このページの最終更新日
2006年08月08日