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| 時感断想 − 第38回 |
1、 願力所生の身 人類共存の地平を開く |
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二十世紀は戦争の世紀と言われましたが、二十一世紀を生きる人類は、グローバルな情報化時代のなかでの文明の衝突、文化の衝突という新たな問題の渦中に放り出された感があります。 私どもは「宗教(仏教)のグローバル化」と「グローバル化のなかの宗教(仏教)」の問題を、現代社会のなかで、地域的にはアジアに生きる一員として脚下照顧し、考えなければならない時であると思います。 それには、私どもが一日一日の生活のなかで拠って立つギリギリの自覚とは何かを知らなくてはなりません。我が身はなぜ尊いのか、人間は究極のところ、どういう存在なのか。 実存のギリギリのところを明らかにする必要があります。人間は「願力所生の身」であることを忘れているところに、現代社会のさまざまな問題が発生していると言うべきでしょう。 曹洞宗の宗典の一つ、『修証義』の第五章「行持報恩」の冒頭に、「此(この)発菩提心、多くは南閻浮の人身(にんしん)に発心すべきなり、今是(かく)の如くの因縁あり、願生此(し)娑婆国土し来れり、見(けん)釈迦牟尼仏を喜ばざらん」とあります。 娑婆世界に生を受けたこの身が、お釈迦さまと出会い、菩提心を発することができる。今生で仏法に出合うことができたことを喜ばずにはいられない。これが「願力所生の身」の自覚です。 二十一世紀は、このことを世界人類が自覚しなければならない時代だと言えるのではないか。道元禅師は、修行する人間、修行する姿が釈迦牟尼仏であるとおっしゃっている。お釈迦さまは、人間は諸行無常の身だからこそ、限りなく修行を続けなさいと言われている。私どもは修行する身であることを忘れてはいけません。 道元禅師は晩年、病を得て京都の俗弟子邸で療養中に「是処即是道場(ここが道場である)」と書き付け、あらゆる場所が道場であると言いました。キリスト教徒もイスラム教徒も、世界の人たちが、それぞれの拠って立つ宗教に基づきながら、人間存在の究極の本質に目覚めたなら、アフリカでも「是処即是道場」、イスラエルでも「是処即是道場」となって、人類共存の地平を開くことができるのではないでしょうか。 |
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このページの最終更新日
2007年11月16日