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  時感断想 − 第49回

 1、    「融通念仏」の誕生        日本生まれの「国産仏教」


倍巌良舜

1、「融通念仏」の誕生
日本生まれの「国産仏教」

2、仏教の世界観
「三千大千世界」の壮大さ

3、阿弥陀如来(上)
極楽浄土で永遠説法を

4、阿弥陀如来(下)
鎌倉浄土教への橋わたし





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   融通念仏宗は日本の伝統仏教「十三宗五十六派」の中に入っており、日本で生まれた宗派=国産仏教第一号であり、約九百年の歴史をもっております。しかしその割に知名度が低いので、この欄を借りて概説させていただきます。
   開祖は良忍上人(延久四年〈一〇七二〉-長承元年〈一一三二〉)。安永二年(一七七三)、後桃園天皇より聖応(しょうおう)大師号を賜わった。
   上人の生誕地は現在の愛知県東海市。領主藤原秦氏兵曹道武を父とし、熱田神宮の神官の娘を母として生まれ、十二歳で比叡山に登る(なぜ十二歳で登叡したかは不明)。檀那院良賀について得度、天台教学を学ぶ。十五歳で禅仁に従って受戒、二十一歳で仁和寺永意について密教を学ぶ。「良忍」は二十一歳ごろまでは「良仁」と称していた。
   延暦寺東塔常行堂の堂衆として修行した。常行堂は叡山浄土教の母体である。叡山浄土教が平安後期の貴族たちと深い関連をもち、また当時、叡山や南都の諸大寺では僧兵が無法を極め権力闘争がひん発して、静かに修行、修学できる環境でなくなってきていた。すでに叡山の講主を務めていた良忍であるが、二十三歳で叡山を下り大原に隠棲。来迎院、浄蓮華院を創建してさらに修行に励まれた。
   永久五年(一一一七)、四十六歳の時、念仏三昧中「一人一切人(いちにんいっさいにん)、一切人一人、一行一切行(いちぎょういっさいぎょう)、一切行一行、十界一念、融通念仏、億百万遍、功徳円満」の偈を阿弥陀仏より直授された。
   またこの時、阿弥陀如来を中心に十人の菩薩がとりまく、いわゆる一仏中立、十聖囲繞の天得阿弥陀如来を感得されたという。これを画像にしたものが融通念仏宗の御本尊になっている。
   これを機に上人は、この教えを大勢の人に伝えなければならないと諸国を回って教化し、摂津(大阪府)の平野に大念仏寺を建て念仏の根本道場となした。
   また上人は「天台声明」中興の祖といわれ、円仁以降に分立した曲節の統一をはかり、大原流魚山声明の祖となった。魚山声明は「南都声明」や「真言声明」とともに十二世紀から十四世紀にかけて最盛期を迎え、念仏踊り、芝居、謡曲、浄瑠璃など様々な謡いものや語りものに大きな影響を与えた。
   その後、融通念仏宗は曲折を重ね、第七世法明上人が元亨元年(一三二一)に中絶状態の宗門を中興した。元禄二年(一六八九)には大通上人が本山第四十六世法主となって融通念仏宗の復興にあたり、江戸に再三おもむいて、幕府に宗門復興の願いを奏上した。
   元禄九年(一六九六)に宣旨を賜わって大念仏寺が檀林となり、清規(しんぎ)も設けられ、復興を成し遂げた。元禄十六年(一七〇三)に『融通円門章』を開版し、宝永二年(一七〇五)に『融通念仏信解章』を作製。教学面も体制ができ上がり、実質的に融通念仏宗が確立したのである。

(H20.10.28〜H20.11.25)

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このページの最終更新日 2008年11月25日