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| 時感断想 − 第56回 |
1、 向きあう (1) 死から目をそらす僧侶
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映画「おくりびと」の中にこんなシーンがある。喪家に、時間通りに到着できなかった納棺師の主人公が、神経質そうな喪主から「死んだ人間を食い物にして、金を稼いでいるくせに」と激しくなじられる、という……。 この映画には、死を扱う者の「穢らわしさ」に対して、侮蔑的な言葉を投げつける何人もの人々が登場する。「おくりびと」の原作となった『納棺夫日記』の著者、青木新門さんは「職業に貴賎はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実があるかぎり、納棺夫や火葬夫は無残である」と書いている。 先の映画のように「死んだ人間を食い物にして、金を稼いでいる」と、直接、言葉に出す人は少ないが、これは、悲しみの中で葬儀を出さねばならない人々が、死を扱う人々に対して、少なからず持つ感覚であり、死をタブー視する社会の背後には、常にこの言葉が存在している。その意味においては、お坊さんも「無残」だということになる。 しかし、青木さんは、火葬場の人や葬儀屋さんやお坊さんと会っているうちに、彼らが「無残」に至る致命的な問題があることに気付く。それは「(彼らが)死というものと常に向かい合っていながら、死から目をそらして仕事をしている」ということだったのだ。 このことは、私にとってみれば、中学生のとき「お前の家は人が死んだら儲かる」と級友に言われたことと重なり合う。その言葉から逃れられず、お坊さんという職業を卑下し、劣等感を抱きながら流れに任せ、金銭的な割り切りをし、死から目をそらしながら、死者たちといいかげんに付き合っていた。そのことを、青木さんはズバリと指摘しているのだ。 この意識から抜け出すことは容易ではなかった。しかし、自ら、苦の中に飛び込み、苦を持つ人々の視線に射抜かれ、真正面から「いのち」や苦と向き合ったとき、私は逃げ場を失うと同時に、私の意識や行動が一変するのを感じた。 |
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このページの最終更新日
2009年07月14日