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靖国問題をめぐって

2007年9月4日付 中外日報(社説)

今年の終戦記念日、安倍晋三総理をはじめ十四人の閣僚は靖国神社の参拝を見送った。八月十五日に参拝したのは高市早苗沖縄担当相(当時)一人だけだった。

近年、中韓両国は総理の靖国参拝でわが国を非難し続けてきた。政治的な駆け引きのカードにされているという指摘があったが、今年は中国も沈黙したままである。

国内では海外からの批判を契機に靖国問題が盛んに論じられるようになり、さまざまな出版物や情報が氾濫するようになった。

だが、一部を除き論調のスコープはすこぶる狭く、近代の歴史認識が浅薄である。仏教の立場からみると、まず明治維新の思想的原動力となった国学のイデオロギーとは何か、神仏分離令と廃仏毀釈の暴挙、国家神道の強硬確立という諸問題が靖国問題の論議でほとんど欠如しているといわなければならない。

戊辰戦争が慶応四年、明治元年(一八六八)から翌年にかけてあった。京都の鳥羽・伏見の戦いにはじまって上野の彰義隊の戦い、長岡藩、会津藩の戦いから箱館五稜郭の戦いで終わるが、幕府軍に対して新政府軍が勝利した。そして王政復古、天皇親政の明治維新となる。

新政府軍の戦死者の霊を祀った各地の招魂場を明治元年に招魂社と改称し、さらに昭和十四年(一九三九)には各地の招魂社を護国神社に再改称した。靖国神社は明治十二年(一八七九)に東京招魂社を改称したものである。戦前は別格官幣社だったが、戦後は宗教法人として法律上特別の存在ではない。

ところで、靖国神社は戊辰戦争からアジア・太平洋戦争までの戦没した軍人、軍属約二百六十万余の霊を合祀している。靖国の祭祀者は「国事に殉じたもの」ということになっている。

だから、戊辰戦争の幕府軍や明治十年(一八七七)の西南戦争の反政府軍の戦死者は原則として祀られていない。賊軍だからである。その後、西南戦争で戦没した西郷隆盛、桐野利秋らの反政府軍の指導者だけは別殿に祀ったと聞く。

また、アジア・太平洋戦争のときの広島・長崎の原爆犠牲者や民間のすべての戦争犠牲者は、軍の命令で動員された学徒等を除いて祀られていない。官(軍)と民(民間人)との差別は今日まで続いている。

このような事実をみる限り、靖国神社はやはり国家神道のシンボル的存在であり、エスノセントリズム(自民族中心主義)の宗教施設である、といわざるを得ないだろう。

高野山奥の院に高麗陣敵味方戦死者供養碑がある。慶長四年(一五九九)六月、朝鮮陣から帰国した島津義弘、家久父子が琉球石を用いて建立したものである。明兵八万一千五百人以上、味方兵三千四百二十人、その他横死・病死の数知れぬ敵味方の戦没者の菩提を葬うためである。

明治中期、日本が国際赤十字社に加盟を申し込んだが拒否された。ところが、この碑の故事によって加盟が承認されたのは有名なエピソードである。明治二十年(一八八七)に発足した日本赤十字社の前身博愛社は西南戦争勃発のときに創立された。その規則第四条の「敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」という設立趣旨は時の明治政府には認められなかった。

仏教は「怨親平等」の教えを説く。戦時中は敵味方と分かれて戦っても死者はすべて平等であり、ことごとく成仏しなくてはならないというのが根本的立場である。高麗陣敵味方戦死者供養碑はまさしく怨親平等の碑であり、国際赤十字社の精神そのものである。

さて、これは仏教者の立場からの提言になるが、靖国神社もまず戊辰戦争の幕府軍の戦死者を合祀し、さらにアジア・太平洋戦争までの敵側戦没者(合祀はともかく)や広島・長崎をはじめとする民間の戦争犠牲者のすべての霊までも追悼し、世界恒久平和を祈念する施設となる道もあるのではないか。

公式参拝や信仰上の理由等による合祀拒否など、靖国問題のさまざまな側面を考える時、過去の国家神道の呪縛を解くことがまず不可欠だと思われるのである。その上で、はじめて靖国問題についてより広い立場からの宗教的論議も可能になるのではないだろうか。