ニュース画像
北山十八間戸の法要には100人以上の参列者が詰め掛けた
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

太子密建の法

2007年9月15日付 中外日報(社説)

さきごろ、書見の折、『魏書』の中で「おやおやこれは」と思う記事に出合い、思わずページを繰る手を止めた。『魏書』は四世紀から六世紀にかけて北中国を支配した北魏王朝、すなわち鮮卑(せんぴ)族の拓跋(たくばつ)部が建国した王朝の歴史をつづる正史である。その記事は列伝九十・西域伝の波斯(はし)国の条に次のごとく見いだされた。

――王の即位して以後、諸子の内の賢なる者を択んで密かに其の名を書し、之を庫に封す。諸子及び大臣、皆な之を知る莫(な)し。王死するや、衆乃ち書を発(ひら)きて之を視(み)、其の封内に名有る者をば即(ただ)ちに立てて以て王と為す。余(のこ)りの子は出(い)でて各々辺任に就き、兄弟更に相い見(まみ)えざるなり。

波斯はペルシャ。すなわち現在のイランである。歴代の正史の中で、西域伝に波斯国に関する記事を設けたのは『魏書』が最初であった。それというのも、波斯が中国と直接の外交関係を持ったのは北魏時代に始まるからである。

『魏書』粛宗孝明帝紀の神亀元年(五一八)条に「波斯、疏勒(そろく。カシュガル)、烏萇(うちょう。ウジャーナ)、亀茲(きゅうじ。クチャ)の諸国、並びに使いを遣わして朝献す」とあり、また西域伝・波斯国の条には、嘘かまことかは知らぬけれども、その時、波斯国の使者から次のような上書がなされたとの記事がある。

「大国の天子は天の生む所、願わくは日の出(い)ずる処にて常に漢中の天子為(た)れ。波斯国王の居和多(きょわた)、千万敬い拜す」

ともかく『魏書』西域伝は、波斯国では国王逝去後の跡目争いを避けるために、国王の生前から自分の後継者にふさわしいと考える皇子の名をこっそり書きつけておくならわしであったことを伝えているのだが、この記事に出合って「おやおや」と思ったのは、中国の最後の王朝である清朝においても波斯国とまったく同様の「太子密建の法」なるものが行なわれていたことを宮崎市定氏の「雍正帝」(全集第十四巻所収)によって知っていたからである。

雍正帝はそもそも父帝である康熙帝の三十五人の多きをかぞえた皇子の中の第四皇子であり、彼が皇太子に決定されるまでにはなみなみならぬ紆余曲折があった。そのような苦い経験にかんがみて、雍正帝は即位早々の雍正元年(一七二三)、諸皇子と大臣たちにこう申し渡したのであった。宮崎氏の文章をそのままに使わせていただくならば、次のように。

「朕はいま心の中でちゃんと後継者を定めている。しかしそれは誰にも発表しない。ただその名前を紙に書いてこの小筐の中へ納めておく。この小筐は表座敷にあたる乾清宮の玉座の正面に高く掛けられた、正大光明という字の額の後にのせて置く。

……朕にもしものことがあって、後嗣を口ずから指定する暇なく死んだ時には、諸皇子、大臣等は会同してこの小筐を開いて見よ。その中に名の書かれてある者がすなわち皇位継承者であるぞ」

この「太子密建の法」は清朝の祖法として代々受け継がれたのだが、『魏書』が伝えている波斯国のならわしと何とよく似ていることか。

それはまったくの偶然なのであろうか。それとも雍正帝は千年以上も昔の『魏書』の記事からヒントを得たのであったろうか。

ちなみに、乾清宮は北京においてもとりわけ威容を誇る故宮のほぼ中央に位置し、現在もそこには雍正帝の書にかかる「正大光明」という額がかかげられている。