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厳しい兄弟子の存在は必要だが

2007年10月13日付 中外日報(社説)

戦前の昭和時代、相撲界には玉錦と双葉山という大横綱がいた。玉錦時代から双葉山時代へ移行するはざまの時期に横綱を張ったのが、第三十四代の男女ノ川(みなのがわ)だ。

一年二場所の時代に二回の優勝を記録しており、決して弱い力士ではなかったが、玉錦の優勝九回、双葉山の同十二回と比べると見劣りがした。横綱在位中に負け越したこともあり"弱い横綱"視された。

男女ノ川の所属部屋が当時は小部屋の佐渡ケ嶽部屋だったことから、ある評論家は「入門当時、厳しく稽古(けいこ)をつけ、投げ飛ばしてくれる兄弟子がたくさんいたら、男女ノ川も大横綱になれただろうに」と言って惜しんだ。

その男女ノ川を追い越す勢いで、第三十五代横綱になったのが双葉山だ。この人がつくった六十九連勝という大記録は、まだ破られていない。双葉山が引退した後に興したのが時津風部屋である。ゼロからの出発だったが、戦後、第四十二代横綱の鏡里をはじめ、大関や三役など、多数の関取を輩出した。その名門部屋でこのほど、序ノ口力士の急死事件が起こった。警察が傷害致死の容疑で調べているというから、穏やかではない。

「兄弟子とはムリへんにゲンコツと書く」といわれるほど、相撲部屋の稽古は厳しいという。今、番付の上位で活躍している関取衆は、その厳しい稽古に耐えて実力を伸ばした。

しかしその厳しさは、稽古の上でのこと。今度、急死した序ノ口力士には、まず親方がビール瓶で殴った後、兄弟子たちが金属バットでリンチを加えたと報道されている。事実とすれば、いじめどころか、集団的な暴力行為だ。五月場所で初土俵を踏んだばかりという若い命は、こうして消えた。

修行が厳しいという点では、宗教界も似たところがある。十月号のある雑誌には、若き日の戦国武将が、ゆえあって二人の仲間と共に京都の禅寺に入り、僧堂修行をする、という小説が掲載されている。

弟子入りを頼んでも「満員だからお帰りなされ」とそっけなくあしらわれる。道心堅固であることを示すには長時間、庭詰や旦過詰をしなければならない。うずくまっていると血行が悪くなり、体全体が腫れぼったくなる。

だがその熱意が認められて入門が許されると、僧堂をあずかる副寺(副司・ふうす)さんや先輩の雲水らが、心を開いてくれる。修行そのものは厳しいが、坐禅や作務に励む共同体の一員として迎え入れてもらえる、という筋書きだ。

僧堂に勝るとも劣らぬほど厳しいのが、比叡山の千日回峰行である。回峰行者は、体調が悪くても雨風が強くても、一日も休むことが許されない。その行を成し遂げて、戦後何人目かの「大行満大阿闍梨」と呼ばれるようになった僧侶が、次のように話した。

「ある夜、熱が出て、しかも強い雨が降ってきた。とても歩けるような状態ではない。それでも師僧は、休めとは言わなかった。小僧に腰を押してもらいながら、息遣いも荒く難所の上り坂にさしかかると、道ばたの木陰に、師僧が立っていた。温かい目で見守ってくれる人がいると思うと、熱も頭痛も消え去るのを感じた」

弟子の身に降りかかる強い雨を共に受けながら、深夜の行者道に立つ師僧。その気持に少しでも通うものが、相撲部屋の親方や兄弟子たちにあったら、初土俵を踏んだばかりの若い力士が"変死"することはなかっただろう。

今の相撲界は、外国出身力士が優位との印象を受けるが、外国籍の力士の一部に伸び悩みの気配も感じられる。国籍にかかわりなく、男女ノ川や双葉山を超える偉材が生まれることを期待したい。親方衆は、仏教界に学ぶことがあってもよいはずだ。