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宗教者的役割が期待される医師

2007年10月20日付 中外日報(社説)

たまたま同じ日、二つの新聞の読者欄に、医療のあり方について似た内容の投稿が掲載された。

読売新聞に投稿したのは神戸市の六十歳の女性。八十九歳の母の病院での検査に付き添った。いろいろ検査をしたが、どこといって悪いところはない。若い内科医は「加齢のため痛いところがあっても、何ともしようがない。楽になりたいなら入院して点滴でもして寝ていたらしんどくない」と言った。投稿者は言葉を返した。「先生、寝ているのも決して楽ではないですよ」と。若い医師には、病名のつかないしんどさは理解してもらえないのだろうか、と嘆いていた。

毎日新聞には、東京都の五十七歳の女性が、自分の病気について書いていた。数年前、うつ病にかかり、最近問題にされている「リタリン」の投薬を受けてきたが、はかばかしくない。自分から医師に申し出て、服用を中止した。

その時医師は「この薬が効かなければ、ほかのどんな抗うつ剤も効かないだろう」と言った。治りたい一心で通院している患者にとって、その言葉が絶望を意味することを、医師は考えなかったのだろうか、と投稿者は記す。

幸いこの人は別の病院に移り、ほかの薬の処方を受けて、うつ病は完治したという。「薬よりも大切なのは、医師と患者の信頼関係だということを痛感する」と、この投稿文は締めくくられている。

わたくしごとだが、筆者は二年前、食事の後で鳩尾(みぞおち)のあたりが痛むようになった。大病院の消化器内科へ行くと、若い医師は体に触れようとせず、胃カメラ検査をしようと言った。

胃カメラを二回飲んで、結果発表の日になった。医師は「よかったですね。どこも異常ありません」と言う。ではなぜ痛むのか、と聞くと「分かりません」との答えだ。健康のページなどに「いまの医師は検査屋だ」と書かれているのは事実だと感じた。そのうちになんとなく痛みは治まったが、検査中に五キロ減った体重は、なかなか元に戻らなかった。

その後、ちょっとした外科手術などでその病院に二回、入院した。その間主治医は、朝七時半すぎに出勤した時と、夜八時ごろの帰宅前にベッドを訪れ、異常の有無を確かめてくれた。早朝から夜まで、勤務医の仕事がハードであることがよく分かった。「検査屋」化するのも無理からぬところがある、とも。

先日、妊娠中の女性が異常を訴え、救急車が搬送したのに、多くの病院で受け入れを断わられ、胎児の命が失われたと報道された。マスコミの論調は、医療機関側の受け入れ体制の不備を厳しく追及するものが多い。しかし現場の医師の忙しさについては、やや配慮不足とも感じられる。

また筆者の周辺の女性の中には、その妊婦がまだ医師の検診を受けていなかったこと、妊婦の身で深夜、買い物をしていたことについて、批判する向きがある。経費のこともあるが、早く開業医にかかっていたら病院への連絡の道があったはず、というのだ。

ところで先年、京都在住の当時七十六歳だった山歩き仲間が、急性の胃かいようになったことがある。激痛に苦しむ様子を見た夫人が、かかりつけの医師に電話して「先生、来とくれやすな!」と頼むと、医師はすぐに駆けつけて「来たでえ。私が来たから、安心やでえ」と言いながら聴診器を取り出した。大病院に紹介してもらい、間もなく全快したが「安心やでえ、の言葉が何よりの支えになった」と感謝している。

いま医療界では、病状を正直に患者に告げる風潮が強いが、それとともに患者を安心させ、力づけることも大切なのではないか。いわば宗教者的な役割が期待されているのだ。二つの新聞への投書は、そのことを物語っている。