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信用関係を壊す嘘

2007年11月6日付 中外日報(社説)

銘菓「赤福」だけかと思ったら、それによく似た「御福餅」まで製造日や賞味期限などを偽っていたというので騒がれている。偽装、隠蔽、粉飾、不実記載など、要するに嘘をついて人をだます行為は、露見すれば大損につながるのだが、事例には事欠かない。姉歯元一級建築士、白い恋人、ミートホープ、比内地鶏など、たくさんある。いまだに後を絶たない振り込め詐欺や悪徳商法は言うに及ばず、公害や事故や危険の隠蔽なども同類である。

そもそも嘘をつくことができる動物は人間だけである。集団生活をする動物には見張りを立てるものが多く、見張り役は危険に気付くと警戒音を発して仲間に知らせる。そこで一斉に逃走ということになるのだが、見張り役が「狼が来た」流の嘘をついて楽しんだ、などという話は聞いたことがない。これは動物の倫理性が高いということではなく、そもそも動物には嘘をつく能力がないのである。

では人間にはどうして嘘がつけるのか。この能力は人間の言語能力と同じ根から出ているから始末が悪い。高度の言語を使うのは人間だけだが、人間は眼前にない事柄をイメージして、それを言語化することができるのである。

記憶を語るというのは、そのほんの一例である。語られる言葉を聞く方も、語り手の言葉を自分のイメージに変換することができる。昨日はああした、こうした、という友人の話を聞けば、その行動を見ていなくても、それをイメージすることができるわけである。

このように、事実とそのイメージを分離して、イメージを言語化することができるから、嘘をつくこともできるわけだ。嘘とは事実でない事柄をイメージして(虚構)、それを言語化し、さらに意図的にそれを事実と信じ込ませる行為である。ありもしないことを事実と信じ込ませるのは倫理に反する行為だが、眼前にないことをイメージして言語化する能力は人間の言語能力そのもので、だから言葉を使うようになった高等動物はついでに嘘をつく能力をも身に付けたわけである。

昆虫や魚のように本能に従って生きることしかできない生物にはそもそも善悪ということがない。集団生活をする高等動物には一種の秩序や決まり事があるようで、違反すると制裁を受ける。動物でも本能に制約されない社会生活様式や個体の自由度が高まるだけ、善悪のようなものができてゆくらしい。

これも人間の場合には格段の差で発達したのである。嘘をつく能力も、人間が本能を捨て、集団生活をして高度のコミュニケーションを営む生物に進化した結果、発達したのである。

コミュニケーションとは、主として言語によって相互に情報を提供し合い、意見を交換して、理解と合意にいたるプロセスだが、これなしには社会は成り立たない。嘘は単に相手の判断を狂わせて損害を与える行為ではなく、そもそもコミュニケーションを不可能として、社会生活を狂わせ、ひいては破壊する行為である。

詐欺というと殺人や強盗のような粗暴犯より罪としては軽いと考えられがちだが、そうではない。嘘は最も重い罪に属するもの、場合によっては戦争や人間奴隷化や差別に匹敵する行為である。

戦後、倫理が軽視され、道徳教育が悪であるかのように言われたことさえあるが、嘘のかなりの部分が政治や体制の問題ではなく、個人と社会の倫理性の問題である。現代社会は民主化されるだけ、また情報化されるだけ、ますます高い倫理性と教養を必要とするようになっている。

それだけではない。社会生活は、パートナーがその義務を誠実に遂行することを前提として、自分が自分の義務を果たすことで成り立っている。つまり分業や相互行為は信用の上に成り立っている。嘘は信用を不可能にする。嘘やごまかしが横行するようでは現代の社会は成り立たない。

嘘は信頼とコミュニケーションを不能化することで社会生活を狂わせるという厳しい認識を通念化する必要がある。この点でも学校や家庭での教育が果たす役割は極めて大きいと思われる。