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精読のすすめ

2008年1月17日付 中外日報(社説)

よく知られていることだが、わが国における出版事業はかなり前から、出版物の点数は増えているけれど販売総数は減り続ける、という現実に悩まされている。漫画のたぐいを別として、本を読む人が激減しているようである。その理由はいろいろあろうが、本よりもテレビやインターネットに情報を求める人が増えていることは事実であろう。

同じ情報にしてもテレビと本では受け取り方が違う。テレビでは瞬時に画面が変わってしまう。ニュースにせよドラマにせよ、他の何にせよ、おかしいと思っても画面を止めたり逆戻りさせたりすることは、録画しておかなければ不可能である。要するにテレビは視聴者に疑問を持たせるいとまや、考えるいとまを与えないのである。そのせいで視聴者の側でも、テレビ情報の受け取り方は不確実でかつ忘れやすい。

しかし、読書の場合は全く違う。本から目を離して考えたり、前を読み直して正確に読んだかどうか、確かめることができる。

筆者は学生に本の読み方を指導する時に、特に人文系の学生に対しては、本を読んだら本を傍らに置いてそれから目を離し、著者の論旨を始めから終わりまで自分の頭の中で再構成することを勧めている。

できればまず一章読み終えるたびにそうしてみるのがよい。再構成が正しいかどうか、本に当たって確かめることができれば、もっとよい。再構成できなければ、それは論旨が分かっていない証拠だから、不明な個所を再度開いて読み直して理解の不足を補うことができる。

それだけではない。自分の頭の中で再構成してみれば、著者の論旨がおかしいことにも気付くのである。飛躍があったり、当然出てくるはずの結論がなかったり、不当な結論が引き出されていたりすることに気付くのである。自分がよく知っている分野のことなら、しかるべき資料が参照されていないこと、あるいは無視されていることにも気付くだろう。これらのことは、ただ読んでいただけでは、著者の議論にのみ込まれてしまって、なかなか見えてこないものだ。

一年に二百冊の本が読めるとか、どんな本でも一冊半時間足らずで読めるとかいう人がいて、速読法というものもある。ものによってはそれもよかろうけれど、独創的で内容のある本には適用できない。むしろしかるべき本を一冊、考えながら、論旨を再構成しながら、論理の飛躍にも気付く仕方で読む方が、読むためにかかる時間は増えるけれど、十冊を読み飛ばすより、はるかに勉強になるのである。

活字から目を離して、問題になっている事柄を自分で考えながら、本の論旨を再構成してごらんなさい。そうすれば自分で考える訓練にもなる。こう言っても残念ながら、それをする学生は、そもそもそれができる学生が、あまりいないのである。試みてもうまくゆかないとか、面倒だとか言ってやめてしまうらしいのだ。

それができなければ研究者になるのはあきらめなさい、とまで言っても必ずしも聞いてはもらえない。そういえば、研究者の場合にしても、そのような人が書いた書評を読むと、内容紹介が不正確だったり行き届かなかったりすることがある。

講義やゼミで学生に質問せよと言っても、なかなか質問が出てこない。何を質問してよいか分からないという人もいる。考えながら聞かなければ質問が出る余地はない。質問があっても、大抵は一問一答で済んでしまって、対話ないし議論になることはまれである。まして学生同士で議論させようとしても、少なくとも教室では、うまくゆかない。多くの人の場合、受動的に受け取った知識は多くても、その整理や運用は下手である。

先ごろ、文部科学省による小中学生の全国学力テストがあったが、知識はあっても応用が下手だという、言い古された結果が発表されていた。今の世のことだ、当たり前じゃないかと言って済まされることであろうか。