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「分」と責任・秩序

2008年3月6日付 中外日報(社説)

「分」という言葉がある。部分や配分の「分」である。これは大変に便利で含みのある言葉なのだが、封建的な「身分」や「分際」というような用法を連想させるせいか、最近、単独ではあまり使われなくなった。

「分」という漢語はもと「分ける」こと、また「分けられたもの」のことで、分割、分析、部分、配分のように用いられている。「わたしの分」といえば、自分に割り当てられた部分のことだ。

上述のように「身分」という語があって、これは江戸時代には士農工商という上下の固定的な序列の中での地位のことであったが、「分」はもともとは地位の上下だけではなく、地位と結合した役割(配分された仕事)、さらにそこに付随する「責任」をも含意していた。

それは「士分」とか「分をつくす」というような用例から見てとれるであろう。英語のpart、ドイツ語のTeilにも似たような意味がある。「地位と役割」という術語は社会学の基本語に属するが、「分」という語は一語で「地位、役割、責任」を意味し得たのである。

「分」という語は内容上、秩序や構造ということと縁が深い。それは次のようなわけからである。

そもそも秩序とは何かといえば、衝突や混乱を防ぐための決まりのことである。これは交通規則などを考えれば分かりやすい。車は左側通行と決め、交差点では正面に青信号が出た場合に発進許可とする。信号には必ず時間と順序の決まりがある。交通信号は一定の時間、青・黄・赤の順序で点滅するのである。

行列も衝突と混乱を防ぐ手段で、一列に並び、前の人が優先されることになっている。つまり秩序とは誰が「いつ・どこで・何をするか」という行動の「優先順位」の定め(配分規則)である。

この「いつ・どこで・何をするか」、あるいは行動の「優先順位」、さらに規則に伴う「責任」ということは、実は「分」という一語の中に含まれていたのである。

一九七〇年代に構造主義が流行し、「構造」とは何かということが盛んに論じられた。構造主義の場合は、特に深層構造と表層構造の関係が議論されたのだが、そもそも構造とは何のことかといえば、次のように説明できる。

つまり、組織(システム)とは構成要素のそれぞれに「分」(いつ、どこで、何をするか。その優先順位と責任)を割り当て、それを組み立てたもの(関係づけたもの)である。だから「分」の割り当てと組み立てのことを「構造」というと定義すれば、はなはだ簡単で分かりやすいわけだ。

実際、「分」にはそのほかに「関係性」という意味も含まれているので、これは「親分」「子分」というような言葉に表われている。親「分」とは、「子分に対する」地位つまり優先順位と、割り当てられた役割・責任のことである。

「分」という言葉から「固定された身分」という封建主義的含意を取り去って、代わりに「責任」という含意を強調すれば、これはとても便利で意味深い語になる。

ところで語は社会で用いられるだけではなく、逆に社会生活における意識・自覚を明確化し活性化するものである。例えば、「正義」という言葉が失われた社会で「正義」が存続し機能することは困難だ。

最近、偽装や隠蔽のような反社会的行為が摘発、糾弾されることが多いのだが、このことは組織(会社、役所、病院、学校のような機能集団)の内部では各人や部局の「分」が明確であっても、"社会全体"における各組織の「分」、つまりそれぞれが受け持つ役割と責任は明確に意識されず、曖昧なまま放置されているためである。

それは自由な起業と競争を建前とする今の社会の弊害だろう。しかし「分」という言葉が捨てられたことと、組織が社会における「分」を自覚せず、責任を顧みなくなったこととは、何か深く関係しているように思われてならないのである。