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夜の海を見守る菩薩の目消えて

2008年3月27日付 中外日報(社説)

「朝顔を賞(め)づる間もなき旅に住む」という俳句を示されたことがある。五十五年前の昭和二十八年初夏、広島港に臨む第六管区海上保安本部(六管)。句の主は本部長の松行利忠さん。俳号を美坤(ビーコン)という。

句の意味は、公務員には転勤が多い。任地の官舎に入居し、やっと落ち着いて庭に朝顔のタネをまく。だが茎が伸びて花が咲くころには、次の転勤辞令が出る――というものだ。

そのころ、広島の報道各社は、入社したばかりの記者に"海"の取材をさせる習わしだった。"海"とは六管をはじめ広島海上保安部、中国海運局(現在は中国運輸局)、広島税関支所などのある、宇品地区のこと。新人記者が官庁機構を学びやすい持ち場とされていた。その年に記者になったばかりの筆者も、ご多分にもれず"海"の担当となり、まず松行本部長にインタビューした。

六管の所属する海上保安庁は、旧海軍の解体に伴って戦後新設された、運輸省(現在の国土交通省)の外局で、海の安全を担当する役所である。船の通り道に残る機雷を除去し、巡視船を走らせて、航行の安全を図りつつ、密輸や密漁など海の犯罪の取り締まりに当たっていた。

当時の六管には、船足の遅い木造の巡視船もあり、密漁船を見つけても取り逃がすことがあった。しかし松行氏は「何よりヘリコプターがほしい。瀬戸内海では立体的な捜査や救難活動をしなければなりません」と語っていた。

さらにもう一つ、海上保安庁の大きな職務は灯台であった。大きな灯台には数人の職員が配置され、家族ぐるみで官舎生活をしていた。官舎といっても、今の東京の一部の立派な公務員宿舎ではない。灯台とは人里離れた孤島や岬に建設されていて、雨風にさらされた官舎が多かった。家族が病気になっても、すぐには医師にかかれない。唯一の楽しみは、朝顔を育てることくらい。松行さんの一句は、特に地味な存在である"灯台守"の苦労を思いやったものだ。

昭和三十二年に封切られた木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾年月」は、佐田啓二・高峰秀子が演じる灯台職員夫婦の、悲しくも美しい生活の記録で、観客の涙を誘った。夫婦は、北海道から九州へと、各地方の辺地の灯台を転々としながら、人生の年輪を重ねていく。木下監督の弟・木下忠司作曲の主題歌「おいら岬の、灯台守は……」の短調のメロディーが、全国の街に流れた。

筆者はすでに"海"の担当を外れていたが、広島県庁の記者室で「新聞記者も灯台守夫婦と同じように、全国を転々とする職業だなあ」と語り合った。

かつて小学校で教えられた唱歌「灯台守」は、歌詞には明示されていないが、英国ロングストーン灯台にいた少女をモデルに訳詞された、とある灯台職員に聞かされた。荒れた夜、父とともに沖の船に向かって光を送り続けた少女だ。そして岡山県の玉島灯台にもそれに負けない少女がいると聞いた。灯台で生まれ育ち、夜も昼も父の手助けをする池田まり子さんだ。六管の職員たちは"少女灯台長"と呼んだ。

今それらの灯台は、すべて無人化された。青森県竜飛岬灯台のように、アクセスのよい幾つかの灯台が観光客に開放され、往年の灯台守たちの生活の一端をしのばせてくれる。

筆者の"海"取材から半世紀余。海の交通はますます過密化し、イージス艦を含めて衝突事故が相次いでいる。レーダーは高性能なのに、自動操舵装置の効力を過信したのでは、との指摘もある。かつて松行氏が望んだヘリコプターの配備は実現したが、事故はいっこうになくならない。

夜の海を見守っていた灯台職員たちの"菩薩の目""地の塩の目"の時代がなつかしい。