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ことばの乱れは心の軽視の兆候

2008年5月29日付 中外日報(社説)

何度聞いても気になる言葉遣いが時折、テレビから流れてくる。それは「はたして」の使い方で、「はたして何でしょうか」というような言い方がされるのである。

しかし、「はたして」は「思っていた通り」「予期通り」という意味である。つまり「やはり」と同義で、「はたして負けた」は「やはり負けた」と同じ意味、ただし「やはり」の方が「予期通り」という含意が強いようだ。だから、さすがに「あれはやはり何でしょう」と言う人はいない。ただ「やはり」が「はたして」と違うのは、「やはりうまくゆくでしょうか」と言えば、「従来通り、今回もまた、うまくゆくでしょうか」という意味にもなることである。

「はたして」が疑問文で使われる例は広辞苑にも載っていて、第六版(二〇〇八)には「疑問・仮定の語を伴って」というコメントがある。

しかし疑問文の場合でも「はたして」は「実際に」「予期通りに」の意味だから、「はたして何でしょうか」はやはりおかしい。疑問文の中で使われるうちにこういう言い方が一般化したのかもしれないが、聞いていて気持が悪い。「いったい何でしょうか」と言ってほしい。

「全然」の使い方も同様に気になる。「全然」は、「私には全然分かりません」「全然気が付きませんでした」などのように、否定辞とともに使うのが普通である。「全く」なら、「全く正当だ」と言えるが、「全然正当だ」はおかしい。しかしこのような用法も――広辞苑は俗な用法と断わっているが――一般化しつつあるようで、日常会話からも、さらにテレビからも、聞こえてくるのである。

言葉は約束事だから皆が使えばその用法が標準的になる。だが、言葉はわれわれの社会だけのものではなく、歴史の遺産でもあるのだから、やたらに変えたり壊したりしないでほしいものだ。

「全然」と関連して、全面否定なのか部分否定なのか紛らわしい用法がテレビでも用いられている。「全員が知らなかった」「全部できなかった」というような言い方である。

全面否定のつもりらしいのだが、全面否定なら「誰も知らなかった」「ひとつもできなかった」で、部分否定なら「知らない人がいた」、または「全部できたわけではない」というようになるものだ。「全員知らなかった」「全部できなかった」では全面否定か、それとも部分否定か、分からない。

全面肯定と全面否定と部分否定の関係は論理学的にははっきりしていて混同は許されない。日常会話でそれがあいまいなのは、論理学的常識の不足とまではいわなくても、すくなくとも言葉の不正な使い方が放置されているというべきである。

言葉の使い方をおろそかにするのは文化国としてあるまじきことだ。文化を尊重する国は例外なく言葉を大切にする。正確で通じやすく美しい言葉の創造に努めるのである。

わが国にも豊かな言葉を作り出し洗練してきた歴史があるのだが、他方、わが国には自国文化と自国語を大切にしない風潮がある。戦後は特にそうだったが、最近は文化遺産を尊ぶ傾向がようやく一般化してきたのは喜ばしいことだ。

われわれには、遺産を尊重しながら、現代生活に必要な、正確で通じやすく美しい日本語を作り出し普及させる責務がある。とにかく言葉の意味をきちんとわきまえた使い方をしてほしいものだ。言葉の乱れは文化の軽視だけではなく、こころをおろそかにすることに通じるのである。