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2008年6月5日付 中外日報(社説)

近代以降、生産や流通をはじめとして効率性が国境を超えた規模で追求されてきた。その功罪はさまざまで、今では"負"の部分にスポットが当てられることが多いが、歴史を振り返ると、もし輸送手段と交易がうまく機能していたならば、飢饉でも餓死といった悲惨を回避できたのではないかと考えられるケースがある。残念ながら現代においてもなお、人類は依然としてそうした非効率性から逃れることができないでいる。

他方、効率性の追求がかえって人間の生存条件を悪化させる例としては環境汚染や昨今の「食」をめぐる不安の問題なども挙げることができるだろう。いわゆる新自由主義のもと富の配分は大いに偏り、効率性追求の負の部分が一層大きく弱者にのしかかってくる状況となった。功利主義的社会の中で生きている身としては、利子を取ることを禁じるイスラーム法(シャーリア)のもとで運営されるイスラーム銀行の話などある意味でうらやましい限りだ。

弱者といえば、健康保険で高齢者の位置づけが話題になっている。高齢化社会の日本では、例の「後期高齢者医療被保険者証」を受け取った人の多くが、まだまだ元気である。それだけに、「後期高齢者」というレッテルに対する反発が全国を駆けめぐっているのも不思議ではない。

政策的には、確かに公平な受益者負担という見地は重要であろう。だが、医療の必要性が高い高齢者に、結果として一層の負担を強いる。公平な受益者負担が同時に、収入の少ない弱者の負担増につながる形である。

さらに愉快になれないのは、さながら工場式鶏卵場の鶏のように、年齢が高くなったからというだけで、「後期高齢者」の枠に配分されることだ。これまでの、そして、これからの人生の意味を、逆に突きつけられてしまったような気がした人もいるのではないか。人間存在は社会的には計量的に見なければならないかもしれないが、人生は一人一人かけがえのないものである。プライベートな領域を土足で蹂躙するような印象が多少なくはない。

戦前、小学校教科書に年寄りを大事にしない国と、高齢者を大事にした王様の話が載っていた。燃やした縄を珠に通せという難題に直面した国王が困っていると、日ごろは全く存在感のなかったお婆さんが、いとも簡単にその難題を解決してしまうという話であった。

お年寄りは貴重な智慧の宝の山である。社会環境の変化で、彼らの智慧が時代遅れとなって生かしにくくなっている、という状況はあるだろうが、この国の社会そのものが効率・功利性ばかり顧みて、そうした智慧を生かす発想自体を失ってしまっている。いうなれば、宝石を磨かないまま打ち捨てているのである。

文化庁の『宗教年鑑』によると日本には十八万二千以上の宗教法人があり、そのうち約七万六千を寺院が占める。最近発表されたある新聞社の調査では、自覚的に信仰を持っている日本人は四人に一人にすぎないとされるが、現実にはそれをはるかに超える数の人々が何らかの形でお寺と縁がある。そして法要の席などで一目瞭然だが、お寺はとりわけ高齢者と関係が深い。

お一人お一人のかけがえのない人生に思いを致してみて、その重みに茫然とするのは筆者だけではあるまい。これからの人生だけが貴重なのではない、彼らのこれまでの人生もまた貴重なのだ。

「後期高齢者」とひとくくりにする政治や行政に、その発想はかけらもない。「生きることの尊さ」に共感し、人生に誇りを持って生きる勇気と元気を与え、それを共有することができるのはほかの誰よりもまず宗教者なのである。

そのような働きは社会的に注目されることこそ少ないかもしれない。だが、こうした地に足の着いた地道な活動こそ、地域社会の安定を支え、社会全体に精神的な安らぎを与えるものになるのではないか。若者の教化を真剣に考えるのも大切だが、お寺に集まる人の高齢化をいたずらに嘆く必要はない。そこには、確かに宗教者が正面から取り組むべき大きな課題があるのだ。