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近江を語る時に欠かせぬ歌と句

2008年6月14日付 中外日報(社説)

耳の不自由な人々の社会参加を支えるボランティア活動には、手話と要約筆記がある。以前に本欄で触れたことがあるが、大津市で文芸関係の対談会(トークショー)が開かれた時、こんなことがあった。講師の一人が突然、額田王の「あかねさす紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守は見ずや君が袖振る」の歌を引用し、近江(滋賀県)と文学の縁の深さに言及した。

この時、要約筆記者の方は「ぬかたの王。あかねさす紫野の和歌」とパソコン印字してスクリーンに投影した。しかし手話通訳者は一瞬手が止まり、対応できなかった。

だから話の要点を抜き書きする要約筆記の方が優れている、というつもりはない。一般の講演内容を伝える場合のスピードは、手話がはるかに勝っている。だが、弁慶にも泣きどころがあるように、手話にも弱点があるようだ。

その場に居合わせた人々と話し合った。一人は、要約筆記者は講師から、額田王の和歌を引用することを事前に知らされていたのではないか、と言った。しかし、そこまで細かな打ち合わせができるはずはない。ただ、滋賀県の文芸を語る会場で活動する場合"必修科目"として、次の五つは知っておくべきだろう、と述べた人がいた。

和歌では「あかねさす」のほかに、同じ万葉集に収められている大海人皇子の「むらさきの匂へる妹(いも)を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」。それに平忠度が詠み、千載集に「詠み人しらず」として収められた「さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな」だ。

一方、俳句では芭蕉にまつわる二つの句が有名である。一つは芭蕉自身が湖西の唐崎で詠んだ「行く春を近江の人と惜しみける」。その芭蕉が遺言により、大津市の義仲寺に埋葬された後に、弟子の又玄(ゆうげん)が詠んだ「木曽殿と背中合はせの寒さ哉」がある。この三首と二句を常識として記憶し、会話や講演の場で出た時にどう対応するかを考えておくべきだ、という。

ところがそこへ、このたびさらに"必修科目"が二首加わった。滋賀県甲賀市にある聖武天皇の紫香楽宮(しがらきのみや)跡から発掘された木簡の両面に、二首の和歌が記されていることが分かった。赤外線調査の成果である。

一方の面に墨書されていたのは、万葉集の「安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」であり、その裏面は古今集の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」であった。後者は仁徳天皇の即位を祝う内容であり「咲くやこの花」は大阪を象徴する言葉となっている。平成二年に開かれた「国際花と緑の博覧会」=通称・大阪花博=では大阪市を代表するパビリオンが「咲くやこの花館」と名づけられた。

一方、前者は陸奥国の、現在の福島県地域に派遣された葛城王を現地でもてなした采女(うねめ)が詠んだ、旅情を慰める歌だという。この二首は平安時代に「歌の父母」と呼ばれ、和歌を学ぶ人が手本にすべき作品とされていた。

どちらも近江には関係ない題材だが、近江で"再発見"されたのは興味深い。しかも万葉仮名と呼ばれる筆記法がとられていた。聖武天皇が紫香楽宮を首都としたのはわずか数ヵ月だったとされるが、つかの間の都の地から、和歌に関する"最古の木簡"が見つかったことは、奈良時代への文学的なロマンをそそるものがある。

聖武天皇は紫香楽の地で大仏の鋳造を志し、燃料として周辺の山林を伐採させた。その使役に苦しんだ住民が造仏の作業場に放火、天皇は鋳造の地を奈良に変更したと伝えられる。今回確認された木簡は、その慌ただしい中で、大宮人たちによって記されたものであったのだろう。