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怨讐を超えて

2008年9月2日付 中外日報(社説)

昭和二十年八月十五日、太平洋戦争が終結した。

わが国が中国大陸に進攻した十五年戦争を中国は侵略戦争だと断じて半世紀以上にわたって、その国家的責任を追及してきた。そしてその謝罪の仕方に対して不満の意を表明し続けた。現況に多少の変化が認められはするが、いまだに反日感情は根深いものがあるようである。

一方、わが国はといえば謝罪は繰り返してきたといって、中国側が求める歴史認識を回避し、国内では中国批判の論調が目立ち始めているようである。

歴史認識を十五年戦争に限定すること自体はともあれ、わが国と中国との関係は千数百年に及ぶ、という深い歴史認識のスタンスを取ってこの問題に対処することはできないものだろうか。

最初期の日本仏教は欽明天皇の時代の五五二年(または五三八年)、百済の聖明王が使者を差遣して仏像・仏典などをもたらしたのが大陸からの仏教伝来の公伝とされる。また、聖徳太子(五七四-六二二)は五九五年に高句麗から来日した慧慈に師事して仏教を学んだ。要するに最初期の日本仏教は朝鮮半島の百済・高句麗系の仏教に基づく。

最澄(七六七-八二二)の出自の三津首(みつのおびと)氏は、後漢孝献帝の裔である登万貴王の末孫とされる志賀漢人系の渡来氏族である。

空海の母方の阿刀(あと)氏は王仁(わに)の末裔だと伝えられる。王仁は百済からの渡来人で漢の高祖の裔。応神天皇(五世紀前後に比定)の時に来朝し、『論語』十巻、『千字文』一巻を将来した、と伝える。王仁は和邇吉師(わにきし)ともいう。中国の典籍がわが国に伝来した始まりだとすれば日本文化の革新的な黎明期である。

わが国は中国と同文だが、千数百年も漢字漢文の時代が続き、近代以降今日まで漢字を常用しているのである。片仮名は平安初期に仏典の訓点で漢字の一部を取ったもの。平仮名もほぼ同時代に漢字の草体から作った草の仮名をさらにくずした音節文字だ。いずれにせよ、わが国の文字は漢字に基づいて創作された。

当然のことながら、仏教・儒教・道教、そして歴史社会全般にわたって各時代に中国文化を摂取受容することによって日本文化の骨格が形成されたのである。われわれ日本人は、こうした歴史認識を深めてゆかなければならない。歴史的文化的に見て中国はわが国にとって最大の恩恵国であったということを。

昭和五十三年(一九七八)八月十二日に北京で日中平和友好条約が調印された。この条約は五ヵ条から成るが、次の平和五原則を基調とする。(一)領土の保全・主権の尊重、(二)不可侵、(三)国内問題不介入、(四)平等互恵、(五)平和共存。

この平和五原則はヒンディー語でパンチ・シーラ、サンスクリット語ではパンチャ・シーラで知られる。一九五四年六月、インドのネール首相の提案で仏教の五戒を国家的国際的水準まで高めようとしたとみることができる。中国の周恩来首相もこれを了解し、両国関係を規定する原則とされた。

一方、わが国と中国との平和友好は千数百年にわたる両国の歴史的関係、文化的交流が背景にある。かつて、わが国が常に中国を文化的先進国として敬意を払い、彼の地から学び取ってきた歴史的事実をわれわれは確認しておきたい。それは仏教交流史を顧みても、思い半ばに過ぐものがあろう。

日中両国は現象的な一時の出来事に疑心暗鬼するのは避けたいものだ。まずわが国が中国に対する思いを新たにし、平和友好の新しい道を切り開くさまざまな方策を進めてみてはどうか。その方途は限りなくある。四川大地震でわが国の救援隊の目覚ましい活躍が、かの地の人々を感動させたのも最近のことだ。溝は双方の努力によって埋められるのである。