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『観音経』あれこれ

2008年9月9日付 中外日報(社説)

『法華経』の一章である「観世音菩薩普門品」が単独の仏典として行なわれる『観世音経』。

『観世音経』略して『観音経』が単行されるようになったのは、鳩摩羅什によって『法華経』が漢訳された後秦の弘始八年(四○六)からまだ間もないころのことであったようであるが、『観音経』は霊験あらたかな経典として知識人から庶民層に至る広範な人たちの信仰を集めた。

それというのも、「若(も)し是の観世音菩薩の名を持する者有れば、設(たと)い大火に入るとも、火は焼くこと能わず」「若し大水の漂わす所と為るとも、其の名号を称うれば、即ち浅き処を得ん」などと『観音経』に説かれているからである。

かくして、観世音菩薩の名号を称え、あるいは『観音経』を読誦することによって苦難災厄を無事に切り抜けたことをテーマとするさまざまの応験記が著わされもしたのであった。

五世紀劉宋の傅亮(ふりょう)の『光世音応験記』、同じく劉宋の張演の『続光世音応験記』、六世紀梁の陸杲(りくこう)の『繋(けい)観世音応験記』などである。光世音は観世音の別称であって、鳩摩羅什訳に先立つ竺法護訳の『正法華経』では観世音菩薩は光世音菩薩と呼ばれている。

これら三種の応験記は中国本土では失われてしまったものの、わが国の平安時代末ないし鎌倉時代の古写本が京都の青蓮院に伝わり、仏教史の研究者はもとよりのこと、小説史や言語史の研究者の注目を集めているのだが、ここでは『観音経』にまつわるエピソード二題を取り上げよう。

一つは『高僧伝』義解篇に伝記のある僧導の利発ぶりを伝える話。

十歳で出家した僧導に、師匠は『観音経』を授けた。短篇の『観音経』は小僧の教育にふさわしいと考えられたのであろう。さてそれを読み終えた僧導は、「このお経は何巻あるのですか」と尋ねた。師匠が「ただこれだけだよ」と言うと、僧導いわく、「書き出しに、爾(そ)の時、無尽意(むじんい)云々とありますから、その前にきっと何かがあるのだろうと思うのです」。師匠は大喜びし、あらためて『法華経』のすべてを授けた。

そもそも『法華経』からその一章が取り出された『観音経』は、一般の仏典のように「如是我聞」の文句で始まるわけではなく、のっけから「爾の時、無尽意菩薩は即ち座従(よ)り起ち、偏袒右肩(右の片肌を脱ぐ)し、合掌して仏に向かいて是の言を作(な)す、世尊よ、観世音菩薩は何の因縁を以てか観世音と名づく」、このように始まるからである。

また一つは『南史』賊臣伝の侯景伝に見える話。

華北の東魏王朝から江南の梁王朝に投降してきた将軍の侯景が突如として反乱の兵を挙げたのは太清二年(五四八)の八月。翌年の五月、都の建康(南京市)の宮城において幽閉状態に置かれていた梁の武帝は八十六歳の生涯を閉じ、武帝を継いで簡文帝が即位したものの、しかし侯景のまったくの傀儡にしかすぎなかった。

そのような状況下の大宝元年(五五○)四月のある日のこと、侯景は自分の居館に簡文帝を招いて酒宴を催した。酒盃が重ねられるにつれて、その座はやがて乱痴気の狼藉の場となった。

そんな折、簡文帝は何を思ったか、侯景をひしと抱きしめるなり、「わしは丞相が慕わしくてならぬ」と口走った。「陛下がもし臣を慕ってくださらなかったならば、臣の今日はありません」、侯景はそう答えた。簡文帝はさらにまた払子を手にして、「わしはひとつ仏典を講釈してやろう」と、しぶる相手を放そうとしない。侯景は控えの者に「最も短い仏典は何か」と尋ねた上、「爾の時、無尽意菩薩は……」と『観音経』の経文を読み上げ始めた。

仏教関係の『法宝連璧(ほうぼうれんぺき)』の著作もあったほどに仏教に通じていた簡文帝。侯景を相手に『観音経』をいかに講釈したのかは不明ながら、奇妙な酒宴が催された翌年の十月、簡文帝は侯景の手にかかって命果てる。

『観音経』には、「若(も)し復(ま)た人有って、当(まさ)に害せらるべきに臨んで観世音菩薩の名を称える者は、彼(相手)の執る所の刀杖は尋いで段段に壊(こぼ)たれ、而して解脱することを得ん」とも説かれているのだが、簡文帝に関してはどうやらそのかいもなかったもののごとくである。