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「電話でお礼」は非礼ということ

2008年11月22日付 中外日報(社説)

大学で教えている友人は約十年前の助教授(今の准教授)時代には、講義中に学生が私語をやめないと嘆いていた。教授に昇進した今は、私語を聞かなくなった。名講義に聞きほれているのかと思ったら、下を向いてケータイでせっせとメールを打っているそうだ。テレビのコマーシャルでは「わが社のケータイがお得です」と競い合う。日常生活は電話に支配されているともいえる。

亡き作家・司馬遼太郎氏夫人の福田みどりさんに、出身大学の後輩の女子学生から電話がかかって来た。用件は、卒業論文「司馬文学論」を作成するための質問だったが、みどりさんが受話器を取ると、相手の学生はまず「お忙しいところをお呼び立てしてすみません。お時間、よろしいのでしょうか」と話しかけた。みどりさんはうろたえた。「私は学生のころに、こんな行き届いた挨拶ができただろうか」と。

この事情については平成十六年九月七日付の本欄で紹介した。みどりさんのことを思い出したのは、先日の読売新聞の読者投稿欄を読んだからである。

松山市在住の七十六歳の主婦・Sさんは、知人からお菓子を送ってもらった。「電話でお礼を」とダイヤルしかけたが、考え直し、お礼状を書いた。電話をしなかったのは、相手が来客中だったり、手の離せない仕事をしていたりすると、迷惑をかけることになる。手紙を書くのも、受け取るのも大好きなSさん。郵便受けに直筆の手紙が入っているのを見ると胸がおどる、という内容だ。

少し前までは「お礼を言うだけのために電話をかけるのは失礼である」というマナーが生きていた。緊急の用事でもないのに、相手を電話口へ呼びつけるのは非礼とされた。特に先方が目上の場合に。

筆者の経験でも、テレビでニュースなど、見たい番組を見ている時に電話のベルが鳴り、こちらの都合も聞かず長々と世間話をされたりすると、実に迷惑だ。郵便物なら、都合の良い時に開封して読むことができるのに……。

手紙といえば、作家だった故・山本周五郎さんは、執筆が滞ると、よく手紙を書いたそうだ。先日の産経新聞の「産経抄」が伝える周五郎研究家・木村久邇典さんの著作によると、例えばうまいソースの製造元へ手紙を出す。味をほめた後で「売れるからと言って規模を広げすぎたり、品質を落としたりせぬように」と書き添える。他者をほめると自分の心も豊かになる。山本文学が今も広く読まれる秘密は、ここにあるのだろう。

同じころ朝日新聞の「患者を生きる」シリーズに、こんな手紙物語が紹介された。長野県在住の田中淳子さんは三十四年前、当時二歳の長女・彩ちゃんを難病で失った。聖路加国際病院小児科では、研修医の細谷亮太医師が親身になって治療に当たった。回診の時、細谷医師は腰をかがめ、同じ目の高さで彩ちゃんに話しかけた。

淳子さんは、細谷医師にねぎらいと感謝の手紙を書こうと思いつつ、歳月が流れた。今は副院長になった細谷医師がラジオの番組で「忘れられない患者さんに彩ちゃんという女の子がいます」と語ったことを友人から知らされた。

医師として初めて担当した患者を救えなかったことが、記憶に鮮明に残っているらしい。淳子さんは三十四年ぶりに手紙を書いた。「彩の入院中に夫と常々、先生はきっと立派なお医者様になられると話し合っておりました」と。

細谷副院長は、担当した子どもや家族からの手紙は全部大切に保管しているという。それが自分の務めだと言って。

手紙による心の交流の記録をいつまでも保管する。いい話だ。このような例は宗教界にもあってよいのではないか。いや、きっとあると信じたい。