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「仏成道」と現代仏教

2008年12月6日付 中外日報(社説)

成道会は「三仏忌」(仏降誕会、仏成道会、仏涅槃会)の中でも、特に仏陀の「大覚」を祝う意味において、仏教徒にとって最も大切な聖日である。

キリスト教においてもキリストの生誕と十字架上の死が聖日とされているように、仏陀の生涯の始めと終わりは、記念すべき聖日であるが、これらは人間として生きたものなら誰にもある記念日ではある。

それに対して「成道」は、ひとりの人間ゴータマ・シッダールタが、それまでの苦悩と「迷いの人間である」ことから、大覚世尊という「覚った人間となった」のであり、決して誰でもの出来事ではなく、シッダールタという人間にこそ起こった「超歴史的」出来事であったのだ。

「成道」ということがこのように、歴史的時間を縦に切るような瞬間の出来事であったことは、同時に二五〇〇年という長い歴史を超えて、われわれを仏陀と「同時代的」に結び付ける契機である。それはどういうことか。

仏陀の人生途上における「菩提樹下の大覚」ということが、生まれてから死ぬまでという連続的な時間の流れの中に起こった超歴史的瞬間の出来事であったがゆえに、かえってそれが、現代のわれわれが自己の身上においてそれを追体験し、仏陀の「直接の弟子」となり得ることを可能にするのである。

「成道」は一個の人間が、苦しみの日常生活から安らぎの生活へと「一超直入」するという、極めてドラマチックな宗教経験であり、それはイエス・キリストの死∥復活とのアナロジーにもなる「宗教の核心」といえるであろう。

それゆえ仏陀を隔たること二五〇〇年の今日において、なお禅の修行者たちは今も死を覚悟の臘八大摂心に挑んでいる。全国各地の道場では、十二月八日の朝、暁の明星を見て大覚に達した仏陀を慕って、自分の人生にも大転換を起こさんものと、雲水たちが一週間を一日として不眠不休の坐禅を続けているのである。

言うまでもなく成道は、祝うべき他人事ではない。かえって成道は、実践すべき「自己の課題」でなければならない。しかも成道の「成る」は、決断と飛躍による身の上の換骨奪胎であって、時間をかけて変形していくようなメタボリズム(変質)ではない。

ここで思い起こすのは現代世界の進展のあれこれと揺れ動く「蛇行」である。その進展は迷いの軌跡とも言うべく、その先に希望が見えない。実際、現代世界の進展には、かつてトーマス・クーンがその著『科学革命の構造』で論じたような「パラダイムシフト」の要素がまったくないように見える。

クーンによると、今までの科学の歴史は決して連続的なものではなく、コペルニクスの地動説に見られるように、常にそれ以前の概念や常識を根底から覆すような新しい理論によって導かれたのである。その場合、それまでの指導的理論は新理論の土台として残されるのではなく、かえってまったく無価値なものとして捨て去られてきたというのである。

科学はそういう仕方で発展してきたという。クーンに言わせれば、それが革命の革命たるゆえんであって、いわゆる「改革」とは根本的に相違するのである。

仏陀の「大覚」が、それまでのインドにおける古典的世界観に質的転換を与えたことは疑いのない事実であるが、その後の仏教史において、社会の劇的な変化に対応する新たな「仏教パラダイム」が現われなかったのは残念なことだ。今こそ仏教教団そのものの「成道」が望まれるのではないだろうか。