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『史記』と『漢書』

2008年12月13日付 中外日報(社説)

大木康氏の『「史記」と「漢書」』(岩波書店)を読んだ。「書物誕生-あたらしい古典入門-」シリーズの第一回配本で刊行された二冊のうちの一冊である。

司馬遷の『史記』は五帝の筆頭である黄帝に始まり、司馬遷が生きた前漢の武帝の時代に至るまでの歴史をつづる通史。後漢の班固の『漢書』は『史記』の紀伝体のスタイルを襲いつつ前漢一代の歴史を対象とする断代史。大木氏の表現を使うならば、「常に歴代正史の両横綱の位置を占め」た二書であるが、当然のことながら、どちらに軍配を上げるかは人によってそれぞれに異なった。

例えば「京都シナ学」の礎を築いた両巨頭の内藤湖南と狩野直喜。内藤が『支那史学史』において『史記』を「空前絶後の書」とほとんど手放しで絶賛しているのに対して、狩野は『史記』よりも『漢書』の文章が優れるのを愛したと聞く。また時代によって人々の好尚に偏向が見られた。今日でこそ『史記』の人気が『漢書』を圧倒するけれども、しかしすべての時代を通じてそうであったわけではない。

『史記』と『漢書』が後世の人々によってどのように受容されたのか、大木氏はそのことにも周到な目配りをしているのだが、氏が明らかにしているように、早い時代においては、すなわち後漢から唐初の時代においては、『史記』よりもむしろ『漢書』が好んで読まれたのであった。

そのことを端的に物語るのは、『漢書』の注釈がすでにして『漢書』が著わされた後漢の時代から書き始められ、その後もさまざまの注釈が次々に書き継がれ、「漢書学」の名で呼ばれるほどの『漢書』研究のブームすらあった事実である。現在においても最も権威ある注釈として尊重される唐初の顔師古(がんしこ。五八一-六四五)の『漢書』注は、それら過去の業績の堆積を踏まえて成ったものにほかならない。

かように司馬遷の『史記』よりも班固の『漢書』がよく読まれた時代のものとしては、大木氏は取り上げられてはいないけれども、三世紀末の西晋の人物である張輔(ちょうほ)の文章がある。その文章は「世人は司馬遷と班固を論評して、おおむね班固の方が優れていると考えているが、私は間違いだと思う」と書き起こされ、その上で二人の優劣を次のように論じているのだ。

――司馬遷は三千年のことを叙述するのに五十万言、班固は二百年のことを叙述するのに八十万言を費やしており、班固は簡潔さでかなわない。及ばざる第一点である。優れた史書の記事たるや、善は勧奨とするに足り、悪は鑑戒とするに足るものだ。人間として常識的な事柄、ありきたりのつまらぬ事柄などをすみずみまで書く必要はない。及ばざる第二点である。晁錯(ちょうそ)をこきおろして忠臣の道を傷つけた。及ばざる第三点である。司馬遷は創造であるのに対して、班固はそれに寄りかかっているのだから、難易はいよいよもって同じではない。

晁錯は前漢の景帝時代の政治家。中央集権を強化すべく諸侯の領地を削る政策を断行したために呉楚七国の乱を招き、死刑に処された。また「司馬遷は創造であるのに対して」云々は、『漢書』の前漢初期の歴史に関する部分がおおむね『史記』の記事を踏襲していることをいう。

ともあれ、張輔の文章の狙いは世人の常識を覆そうとする点に存するのであって、かえってその当時、『史記』よりも『漢書』に人気があったことを裏書きするまた一つの証左とすることができるであろう。

『史記』の本格的な注釈の出現は『漢書』の注釈に比べてずっと時代が下った。徐広の「音義」、またそれを踏まえ裴●(はいいん)の「集解」であるが、徐広は東晋、裴●は劉宋、ともに五世紀の人物である。

ちなみに大木氏は、「裴●が徐広の『史記音義』を見ていたことはたしかである」と控えめに述べておられるけれども、裴●の「集解」は徐広の説を全面的に取り入れ、増広敷衍して成ったものとするのが正しい。

ともかく裴●からさらにまたかなりの時間が経過し、『史記』の注釈として唐の玄宗時代の司馬貞によって「索隠」が、また張守節によって「正義」が著わされ、かくして大木氏が言われるように、『漢書』に代わって『史記』の評価が一気に高まるのは中唐の文人の韓愈(七六八-八二四)を待たなければならなかったのである。

●=馬偏に因