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「心機一転」の時

2009年1月3日付 中外日報(社説)

元日の朝、五時になるとひとり床から起(た)って今年初めての顔を洗う。若水をくんで諸堂の仏たちに供え、薄明の中で腹の底から祈祷の経を読む。筆者にとって過去五十年の習いとなった、これが一年の始まりである。朗々と誦(とな)える読経の声とともに、寺の内外に瑞祥の気が漂うのは何とも新鮮な気分である。

つい数時間前には、一年間の罪業を払う気持で百八の鐘を突き終え、鐘楼を下りたばかりであっても、元日の朝となれば、どうしてこのように洗われたような気持になるのか。大みそかから元朝にかけておきるこの不思議な気分の転換は、何年繰り返してもマンネリ化することがない。

普通はどのようなことでも、繰り返すことによって新鮮さはしだいに色あせてくるものである。にもかかわらず、元朝のこのすがすがしさは、幼少の時から老いを迎えた今まで、一貫して変わることなく続いてきた。これはいったいいかなる心の作用に基づくのであろうか。

ところで絶え間なく連続する時間の流れの中に、このような刻みを入れることを覚えたのは、おそらく人間だけの賢さではなかろうか。

古代ギリシャの人々は、自然の春夏秋冬の繰り返しの中に、時間が永劫に「回帰」するのを見た。それが彼らの「円環的」な時間観念を生み出したのである。こうして彼らは優しい自然に抱かれて生き、自然のリズムに合わせて生きようとしたのである。

古代インド人や中国人の心においてもまた、これと似た時間の受け取り方がある。春秋の繰り返しは、彼らの世界観や人生観の上に、大きな影を落としている。バラモン教における「輪廻」の思想や、道教における「陰陽」の説などはその典型的な例であろう。そこには大自然の繰り返す運動とともに生きようとする人間の姿がある。

これと著しく異なる時間の区切りは、ユダヤ・キリスト教などヘブライの宗教に見られる「歴史的」な時間のとらえ方である。こちらは直線的な時間の流れの中に、「創造から終末へ」という区切り(アイオーン)を入れたのである。それが「歴史的宗教」と呼ばれるゆえんであるが、これは人間にとってあまりにも過酷な砂漠的自然に立ち向かおうとする人間の、自覚から生まれた「主体性」の自覚に基づくもので、徹底的に「反自然的」である。

人間によって時間の流れを歴史として改造することは、そのまま人間を神の国に導こうとする神の計画に沿っている。そういう意味でヘブライ宗教の時間には、目的と方向がはっきりしている。

現代科学の飽くなき進歩発展も、もともとそういう未来への希望に基づいていたはずだ。しかし現代人は今、その止めどなき科学の進歩の彼方に、「絶望」が見え隠れするのを恐れるようになった。科学は進歩しつつ絶望に向かって急いでいるように見えるのだ。

ここにきて、東アジア世界に見られる独特の世界観、あるいは自然観が注目されるようになった。それは自然の中に、自然のリズムに合わせて生きようとする人間の生き方である。いわば人間の世界を自然から区別して考えてきた思想に対する、根本的反省である。

とはいえ今ごろになって、人間の生活から「進歩」の観念を排除することは不可能である。常に理想を求めて前進しようとすることこそ人間の本性であるからだ。しかも同時に人間には、「反省」の能力も与えられている。われわれは今こそ、未来へ向かう進歩の中において、同時に「退歩返照」する賢さを取り戻さなければならないであろう。

飽くなき人間の欲望の前進に、反省の刻みを入れるのである。これが哲学の教える「反復」というものであろう。反復は過去を繰り返すことではなく、人間がその真の状態に復帰することである。元日を境として、去年を忘れ今年を迎えるという反復もまた、こうしてわれわれにとっての「心機一転」でなければなるまい。