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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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今なお二重苦に被災地はあえぐ

2009年1月22日付 中外日報(社説)

阪神・淡路大震災から十四年の一月十七日、各地で犠牲者の追悼会があった。筆者も自宅近くの慰霊碑に献花しながら震災当時、神戸の報道現場で見聞きした幾つか痛ましい情景を思い起こした。あの人たちは、この十四年をどう生きたのだろうか。

負傷者やその家族でごった返す病院のロビーの片隅で、長いすに幼児の遺体を横たえて「ごめんね、ごめんね、母さんがあんなものを買わなければよかった」と、一人の女性が繰り返し語りかけていた。子どもの成長を願い、買ったばかりのたんすが地震で倒れ、愛児が下敷きになって死んでしまったのだという。

長田区の大火災の現場近くの喫茶店では、毎日訪れる初老の男性が、いつも同じ話をしては涙を浮かべていた。倒壊した自宅に息子の体の一部が埋もれ、助け出そうとしていたところへ猛火が迫った。「おやじ、もういいから逃げろ」と叫ぶ息子を置き去りにせざるを得なかった。自宅はすぐ火に包まれたという。

ともに肉親を死なせ、自分は生き残った強い罪責感にさいなまれていた。震災で亡くなった六千四百三十四人の何倍、何十倍の人々が、同じように深い心の傷を受けたはずだ。ことしも震災忌に向け被災者の「その後」を追うマスメディアの報道が集中したが、記事を読むにつけ、あらためてそのことを思った。

生き残った者が人知れず抱える苦しみは、もちろん震災だけではない。戦時中の広島、長崎の被爆地で、また東京大空襲をはじめ空襲を受けた全国の都市で、肉親や知人の無残な死に目の前で向き合った人々は、心に後遺症を引きずって六十余年を生きてきた。老境に入って逆に、その忌まわしい記憶が鮮明によみがえることさえあるのだという。人の心はデリケートで、推し量り難いものだ。

ただ、震災が少し違っていたと思うのは、実に不公平な災害だったことだ。被災地から淀川を越え大阪に入ると、ネオンがまぶしく輝くいつもの繁華な世界があった。その落差を、見えない敷居と感じた被災者が少なくなかった。体験を共有した人々が限られていると、いわゆる「風化」が進むのも早い。そのことは、昨年の震災忌の全日本仏教青年会有志の慰霊行脚を報じた本紙記事に触れて、この欄でも記述した。しかし、生き残った者の心の痛みは変わることがない。慰霊とともに「癒やし」が被災地での深刻な課題として残されていくだろう。仏教界にも深く関係することである。

もう一つ、ことしの震災忌で気になっていたのは、不況の影響だ。実態を掌握しにくいのか、それに関する報道をあまり見なかったが、ある記事(朝日新聞)によると、震災被災地を管轄する労働基準局の昨年十一月時点の有効求人倍率は神戸で〇・七八倍、阪神間〇・六〇倍で全国平均(〇・八一倍)より低い。それだけ就職難ということだ。神戸市の生活保護受給者数は昨年十月で過去最高の約二万八千人。人口比率で全国平均の二倍以上という。

もともと被災地の経済復興は遅れていた。その後の急激な不況の進行で状況はもっと悪化していると思われる。とりわけケミカルシューズなど中小企業の多い神戸市長田区などは、厳しさを加えているだろう。

不況による派遣切りの酷薄さは、以前にもこの欄で触れた。先に述べた心の痛みと生活の困窮と。二重苦にあえぐ被災者が増えているはずだ。

百年に一度という大不況下、生活困窮者に対する炊き出しが各地で行なわれている。しかし、先日、新聞の投書欄に「お寺が炊き出しをしたとか、仮眠の場を提供したという話を聞いたことがない」という投書が載っていた。不況はこれからが本番だ。職も住まいも失う人々がさらに増える恐れがある。ここでも仏教界の姿勢が問われている。