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大学者鄭玄の逸聞

2009年1月27日付 中外日報(社説)

鄭玄(じょうげん)といえば中国の後漢時代を代表する大学者である。後漢時代を代表するだけではない。旧中国を代表する大学者を二人挙げよと問われれば、まず疑いなくこの鄭玄、それに朱子学の名で有名な南宋の朱熹(しゅき)に指を屈するであろう。ちなみに、鄭玄が亡くなったのは西暦二〇〇年。朱子が亡くなったのはそれからちょうど千年後の一二〇〇年。偶然とはいえ面白いことである。

鄭玄が大学者の名に値するのはなぜなのか。何よりも彼が儒教の古典である五経のうちの『春秋』を除くすべての書物の注釈に筆を染めたからであり、『易経』『書経』の注釈は逸文が伝わるだけであるものの、『詩経』の注釈、それに『礼経』である三礼、すなわち『儀礼(ぎらい)』『周礼(しゅらい)』『礼記(らいき)』の注釈は完全なままで今日にまで伝わり、最も依拠すべき権威あるものとして脈々と生命を保ち続けている。

新しい年も始まったばかりのことだから、ここでは堅苦しい話はさておき、鄭玄先生にまつわる肩の凝らないユーモラスな話を紹介することとしよう。五世紀の劉義慶(りゅうぎけい)が編纂した名士逸話集である『世説新語』に見える話である。

――鄭玄の家庭では奴婢(使用人の下男、下女)もそろって学問のたしなみがあった。ある時のこと、一人の下女に用事を言いつけたが、思い通りにやらぬため、鞭で打とうとした。相手がいろいろと抗弁を始めると、鄭玄はかんしゃく玉を破裂させ、泥の中に引き据えさせた。

すぐにまたほかの一人の下女がその場にやって来て尋ねるのに、「胡為(なんす)れぞ泥の中にいん〈泥の中にいるのはどうしてなの〉」。すると、こう答えた。「薄(いささ)か言(ここ)に往きて愬(うった)えたれば、彼の怒りに逢いぬ〈不平を述べ立てたところ、ご主人さんにかんかんに怒られました〉」

「胡為れぞ泥の中にいん」は『詩経』の風(はいふう)「式微(しきび)」篇の句。「薄か言に往きて愬えたれば、彼の怒りに逢いぬ」は同じく風「柏舟(はくしゅう)」篇の句なのである。

この話は『世説新語』に見えるだけで、『後漢書』の鄭玄伝にはもとより見えず、小説家言とすべきものであろう。

もっとも、近人の余嘉錫(ユイチアシー)氏は『世説新語箋疏』において、「子政の童奴(下男)は皆な左氏を吟じ、劉●(りゅうえん)の侍婢(下女)は悉く霊光を誦した」という例もあるのだから、一概に虚談として退けるべきではなく、一佳話としてそのまま留めてもよいのではなかろうかと論じている。

ここで引き合いに出された子政とは、前漢のやはり大学者であった劉向(りゅうきょう)の字(あざな)。左氏は『春秋』経の一つである『左伝』である。後漢の王充の『論衡』、その案書篇には「劉子政は左氏を玩弄し、童僕妻子は皆な之を呻吟す〈その一節をうなる〉」とある。

また劉●は三国の蜀の人。霊光は後漢の王逸(おういつ)の文学作品である「魯の霊光殿の賦」。『三国志』の劉●伝に「侍婢数十、皆な能く声楽を為し、又た悉く教えて魯の霊光殿の賦を誦読せしむ」と出てくる。

ともかく『世説新語』の話は充分にユーモラスだが、それよりも一層秀逸なのは、「鄭玄の家の牛は牆に触れて八の字を成す〈鄭玄の家で飼われている牛が壁をなめると『八』の字ができあがる〉」、そのような俚言さえあったということだ。

唐の詩人として有名な白居易の「双鸚鵡(そうおうむ。つがいの鸚鵡)」と題する作品に、「鄭牛の字を識(し)ること吾は常に歎ず」の句があり、その自注に「諺に云わく」としてこの俚言が引かれているのである。

●=王偏に炎