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腕や肩の痛みに負けないで奉仕

2009年2月10日付 中外日報(社説)

耳の不自由な「難聴者」のためのボランティア活動には、手話とともに「要約筆記」があることを、本欄で数回、紹介した。戦後、京都で始まり、名古屋で組織化されて、全国に広まった。高齢になって聴力を失った人は手話をマスターするのが困難だから、会話等の要点をメモして難聴者に示すものだ。

その活動をする要約筆記奉仕員の健康を守るため、京都市中京区の京都市聴覚言語障害センター(聴言センター)で十四日に「健康に関する研修」が行なわれる。政令都市である京都市と、同市を除く京都府各市町村を併せての研修会は、今回が初めてである。

要約筆記者が長時間の活動で腕や肩に疲労を感じたり、腰を痛めたりした時の対応策や、さらにはその痛みを予防するためのトレーニングについて学ぶ。同様の研修は全国各地で行なわれている。

さて昨年の春、ある新聞の読者のページに、中国地方在住者から、要旨次のような投稿が寄せられた。

「私は難聴者だが、積極的に社会参加を心がけている。先日も市主催の懇談会に要約筆記者を伴って出席し、市長と有意義な対話をすることができた」

この投稿で気になったのは、要約筆記をしてくれた人への感謝の念が表われていないことだ。「要約筆記者を伴って」ではなく「付き添われて」とすべきではないか、と感じた。

社内でもそのような意見が出たらしい。だが投書を採用した編集委員は反論した。障害者が社会参加するのは当然の権利だ。「伴って」には「同行する」の意味があるから、文章表現も間違っていない、と。

権利論や文章論から言えば、確かにその通りだ。しかし、投稿者や編集委員には、要約筆記の現場への理解が、必ずしも充分といえないのではないか。

要約筆記奉仕員となるには、旧厚生省が定めた「要約筆記奉仕員養成カリキュラム」の定めに従って数日間の講習を受けなければならないが、それで完ぺきではない。講演会や会話の場で先達の仕事ぶりを学ぶ必要がある。フェルトペンで要点を紙に書き取り(ノートテーク)パソコンで印字するなりの作業は「経験を積む」ことで磨きをかけねばならない。

"現役"世代の参加が望ましいけれど、リタイアした男性や、子育てを終えた女性が主力となりがちで、高齢化は避けがたい。高齢の難聴者を高齢のボランティアが支える、一種の老老介護である。奉仕の念に燃えている人でないと務まらない。

要約筆記者の絶対数が足りない地方もある。難聴者が市町村の福祉の窓口などに「要約筆記者の派遣を」と頼んでも、応じられないこともある。その事情が、投稿者や編集委員に理解されていたかどうか。

さらに要約筆記者は、交代要員が少ない場合、長時間腕や肩を使って、痛みを覚えることがある。OHP(オーバーヘッド・プロジェクター)という機械を使ってスクリーン映写をする時は、体を片寄せた姿勢で書き続けるため、腰痛が起こる。油性フェルトペンを使って、溶剤のにおいで気分が悪くなることもある。しかもこうした苦労を重ねながら、要約筆記奉仕員にはまだ正式の国家資格が与えられていない。篤志家と位置付けられる教誨師にも似た立場だ。

投稿者が、障害に負けず社会参加を目指している志は多とするが、要約筆記者を「伴って」行動するというのは、タクシーを利用する感覚に通じるものがありはしないか。「ともに生きる」社会は奉仕する心、感謝する心の交流によって生まれるといえよう。

残念なのは、一部を除いて仏教界に、要約筆記に対する関心の低いことだ。高齢の檀信徒には難聴者が多い。大遠忌に向けて活用を図り、機縁を広めることはできないだろうか。