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無給の理事長を十五年間務めた

2009年3月3日付 中外日報(社説)

話題の性質上、わたくしごとのからまることをお許しいただきたい。二月二十一日、東京に住む一人の旧大蔵省OBが急逝した。宮崎県出身の垂水公正氏で、七十八歳だった。

垂水氏は、太平洋戦争開戦直後の昭和十七年三月、筆者とともに広島市の小学校を卒業した。父親の転勤による転入生で、机を並べたのはわずか一年である。卒業後に筆者とは別の中学校に進学した。

慌ただしい時代だったから、一年間在籍だけでは、宮沢賢治の『風の又三郎』のように、風とともに来て風とともに去ったような印象しか残さなかったかもしれない。だが垂水氏は同級生と、極めて強いきずなで結ばれた。何事につけ、不得手なことを級友が克服すると、全員が拍手する仲良しクラスだった。

東大を出て、大蔵省に入省し、出世コースを歩んだ垂水氏は、たった一年在学しただけの小学校のえにしを大切にして、毎年の同期会には都合のつく限り、必ず参加し、男女すべての参加者と親しく語り合った。進んで幹事役を引き受けたこともある。

同級の一人に、被爆から復興した広島で、家業の商店経営を引き継いだA君がいた。息子が結婚することになったが、披露宴の席割り表で、先方の新婦側に比べて、自分の方が見劣りする。そこで垂水氏に泣きついた。「新郎の父の友人」として出席し、スピーチをしてほしいと。

「いくらなんでも、それはムリだ」と忠告する同級生もいた。中央官庁のキャリア組の忙しさを知っているからだった。ところが、意外にも垂水氏はそれを引き受けた。新婦側の親族は「Aさんはよい友人をお持ちだ」と感嘆した。

有力な政治家らに信頼されて順調に昇進した垂水氏は、関税局長を最後に退官した。その後に就いたのが、アジア開発銀行総裁という激務だった。

本部所在地のマニラへ赴任して、熱帯の地で四年間、勤務した。「国際機関の幹部職員には、いずれはもっとよい職場に移ろうとの野心を持つ"キャリアアップ"志向組が多い。その人々をいかにうまく働かせるかが難しい課題でした」と告白した。

任を終えて帰国した垂水氏は、一部の元官僚のように、特殊法人の理事長職を渡り歩いたりしなかった。理事長は理事長でも日本フォスター・プラン協会という、国際ボランティア活動団体の日本本部の理事長兼会長に。十五年間、給料ゼロだった。

一九三七年、スペインの内戦で肉親を失った子どもを助けるために設立された国際団体で、日本をはじめ英、米、独、仏、韓国、オランダなど十七の先進国の市民が出し合った資金を、約五十ヵ国の発展途上国の生活向上に役立たせるほかに、資金を拠出した先進国の市民が、受ける国の子どもたちと文通による交流を深める。日本では評議員や会員の歌手の安田祥子さんや俳優の滝田栄、高木美保さんら五万人が、毎月三千円から五千円を負担している。米国ではヒラリー・クリントン国務長官も名を連ねているはずだ。

垂水氏がこの団体で奉仕する道を選んだのは、アジア開銀時代に政府レベル、財界レベルの交流だけでは解決できない国際格差があることを知ったためだろうと筆者は推測する。

垂水氏は京都を訪れるたびに筆者に、西本願寺の飛雲閣や龍谷大学大宮学舎などを案内してほしいと求めた。垂水氏の出身地は旧島津藩の領地で、江戸時代に浄土真宗が禁教とされ、熱心な門信徒は、かくれキリシタン同様に、かくれ念仏の信心を守った。垂水氏自身は神道の家に育ったが、念仏信仰の強さに関心を持ち、法義の一端に触れたいと願ったのではないだろうか。そういえば広島の小学校の同級生の中でも、真宗寺院住職のB君との親交ぶりが際立っていた。