ニュース画像
落慶法要に続き、つき初めする小堀管長と見守る坂井田住職(右)
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

真実の発掘と表現

2009年5月2日付 中外日報(社説)

先ごろ、近く実施される裁判員制度との関連もあって、最高裁が出した二件の判決が注目された。一つは痴漢行為の被告が無罪となった件、他は和歌山の毒入りカレー事件の被告が死刑確定となった件である。

共に被告は無罪を主張した。前者では被害者の女性の証言に思い違いの可能牲があるということで被告は無罪となり、後者ではいわゆる状況証拠の積み重ねが無罪の主張を退ける充分な理由と見なされた。

これらの判決を正当とする人は多いと思われるが、事実の認定と評価はいずれにせよ人間が行なうこと、一般に百パーセントの確実性は望み難いものである。直接的あるいは間接的に事件にかかわった人の証言と、物証と、被告の自白とが全く一致すれば問題はないのだが、この条件は必ずしも満たされるわけではなく、それでも裁判所は判決を下さなければならないし、下された判決は効力を持つ。判決は事実の認定と評価として社会的に通用するのである。だから裁判には再審への道が開かれてはいるが、その道は狭い。

判定と評価が最もしやすいのは恐らくスポーツであろう。しかし陸上、水上、氷上でもスピード競技の場合はよいが、体操やシンクロ、フィギュアのように採点で優劣を決める場合は、審判員すべてがある演技に同点を与えるということはまずない。拳闘など格闘技の判定でも同様である。まして日常生活の上での評価が全員の納得を得るのは困難で、多くの人がさまざまな機会に「不当な認定と評価を受けた」との思いを抱いていることであろう。

一般に事実の認定と評価は完璧に正しいとは言い難いし、しかもいったん決定されればそれを覆すのははなはだ困難だ。それでも公に承認された機関はさまざまな事実の認定と評価を行なうのである。

それはなぜか、例えば大学での試験を考えてみれば分かることである。試験というものは、問題と採点が適正かどうかいつも問題になり得る。また解答者の側でも、たまたま知っている問題が出るとか、またその反対というような運不運が付き物だ。従って評価の適切性も百パーセント信頼を置けるものではないが、だからといって試験をしなければ、大学の運営には支障が生ずるわけである。

一般化していえば、裁判や試験のような事実の認定と評価は社会の秩序を維持するために必要なのであって、人々がそれに従うのは、たとえ仮に不完全であるとしても、秩序がないよりはましだと心得ているからであろう。

宗教の場合も同様である。もともと宗教は個人の内面の事柄だといっても、教団が成立すればそこには必ず「法」ができる。例えば信仰、職制、財産に関する法で、その典型はカトリック教会の教会法に見られるといってよいだろう。

しかし宗教の場合、いつも、真実と実践が法的に規制されてよいのかという問題があった。個人があえて真実の認定と評価の伝統に反し、秩序を破り、権威から離脱して根源に復帰し、新しい教団をつくるという運動が繰り返されてきた。プロテスタント教会はこうして成立し、日本でも鎌倉仏教は伝統に対する革新という面を持っていた。カトリック教会においても第二バチカン公会議後「カトリック新教会法典」が発布されている(一九八三年)。

宗教には、真実の認定と評価は特定の伝統的権威と機関に委ねられるものではないという意識があり、そもそも教団とその秩序は何の表現であるかという問題が存在する。

宗教は概して伝統指向的であり、それは決して悪いことではない。真実と秩序を守るためにはどうしても必要だという面がある。

しかし、歴史の節目には宗教的真実の新しい表現を求める運動が起こる。現代もそうした節目ではないだろうか。というのは、現代では宗教全体の問題として、一般に理解されなくなった真実を新しい言葉で表現する必要に迫られているからである。法的規制の強い伝統的教団も存在するが、現代の宗教はどこまで真実の発掘と認定と評価に開かれているのだろうか。