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ジャーナリズム精神と活字離れ

2009年6月11日付 中外日報(社説)

いわゆるマネーゲームが盛んだったころ、若くして大金を得た一部のトレーダーがマスメディアの買収を企てる一方で「これからの社会にジャーナリズムは要らない」と言い切ったことがあった。このような風潮は、昨年夏のサブプライムローン問題とともに影を潜めたが……。

ジャーナリズムという言葉が何を意味するかについては諸説があるが、要するにスクープを競う心意気の原点、ということではないか。朝刊と夕刊が発行されている現在、いかにして他社より半日早く重要ニュースを報じるかということに勝負をかけている。

筆者の後輩A氏がこのほど、在職中の取材活動の回想記を一冊にまとめた。後輩といっても、編集局長や主筆を歴任した、逸材中の逸材である。

役所の発表ものを書き写すのを潔しとしなかった。独自の人脈を築きつつ、異色のニュースを発掘し続けた。役所の順送り天下り人事のからくりを暴いて、国税官僚を狼狽させた話がある。大事件の進行中に、警察が撮影した極秘の現場写真を紙面に掲載したこともある。新聞社の経営が苦しくて銀行の援助が必要な時に、その銀行をめぐるスキャンダルをすっぱ抜いたりもした。社会部ジャーナリズムの権化ともいうべき記録が、A氏の著書に詰まっている。

日本で本格的な新聞の発行が始まったのは明治初年だが、現在のようなスクープ合戦が花開いたのは、大正デモクラシーのころだった。電信や電話の通信網が発達し、新しい印刷機が導入され、各紙の発行部数も伸びていた。

東京新聞の前身、国民新聞の記者は、明治天皇の大葬が行なわれた日、殉死した乃木希典大将の遺書を入手した。乃木家は絶家とすることが記されており、養子を立てて乃木家存続を図ろうとした長州閥の政治家に衝撃を与えた。

朝日新聞は、当時の皇太子(昭和天皇)と良子女王(香淳皇后)の婚約が確定したことを特報した。朝日新聞は伝統的に、皇室ものに強いようだ。大正八年のことである。

そして第一次大戦後のワシントンでの国際会議で、産経新聞の前身、時事新報が"地球を一周する"国際的なスクープを果たす。大正十一年(一九二二)、主要国間の軍縮会議と並行して日英米仏の四ヵ国会議が開かれていた。太平洋・極東の平和問題をめぐる話し合いである。

時事の記者は正式発表の十日前に「日英同盟は廃止され、それに代わる四ヵ国条約が結ばれる」ことを伝えた。東京で時事新報の紙面を見たタイムスの東京特派員がロンドンに打電、それがさらに四ヵ国会議のお膝元の米国でニューヨークタイムスに転載された。ニュースはまさに"地球を一周"したのである。

戦後の昭和五十一年(一九七六)には、こんなこともあった。米上院外交委員会で、ロッキード社が旅客機を売り込むため、日本政府の高官に多額のワイロを渡したとの証言がなされたという。その第一報は日本の朝刊の締め切り間際に、ごく短い通信社電報として流れてきた。一部の社が中面に、小さな扱いでその電報を掲載した。

夜が明けた夕刊の編集段階で、新聞界のみならず政財界も大騒ぎになった。田中内閣時代の「ロッキード事件」の幕開きだった。もしどこかの社が、朝刊一面に大見出しで掲載していたら「ロッキード事件に先鞭をつけた」と誇ることができたであろうに。

ジャーナリズムは今も、脈々と熱い血をたぎらせている。しかし記者の熱意は変わらなくても、読者の新聞離れはいかんともしがたい。色刷りや増ページでサービスしても、テレビ欄しか読まないという読者が増えている。これは宗教界の文書伝道の困難さに通じるものがあるのではないだろうか。