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新霊場会の未来

2009年6月13日付 中外日報(社説)

世界文化遺産に指定されている熊野路の巡礼は歴史が古く、院政期の法皇、上皇が頻繁に足を運んだ記録が残る。あの歌人藤原定家も「目眩み魂転じて恍々」と後鳥羽院行幸に随行し苦しんだ体験を日記につづっている。現在は巡礼路としてそれなりに整備されているのだろう。四半世紀ほど前に中辺路を歩いた折は、道中ほとんど人と出会うことのない峠越えや尾根伝いの難路に、定家ほどではないにせよ音を上げそうになったものである。

西国三十三箇所観音霊場は伝説では養老二年(七一八)にさかのぼり、その約二百七十年後、花山法皇が再興したとされる。いずれにせよ長い歴史がある。四国八十八箇所は弘法大師への信仰が修験の伝統と結び付いて形作られてきたものだろうが、聖地の成り立ちはむろん極めて古い。

ただ、西国三十三観音にせよ四国八十八箇所にせよ、その巡礼行が庶民レベルに広まるのは江戸時代に入ってからのようだ。ほかに比較的古い霊場会の成立を調べてみると、江戸初期に組織されたというケースがけっこう多い。時代的背景はいくつか考えられるだろうが、社会の成熟が前提条件の一つであったことは間違いない。

そもそも旅行自体が危険では、庶民の札所巡拝は成り立たない。札所の"点"だけではなく、それを結ぶ線、あるいは周辺地域も巡礼者を受け入れる環境がなければならないだろう。札所を組織にまとめる力を持った人材も必要である。

一方、巡拝者の側の動機という問題がある。それまでの生活をすべて否定して、異なる世界に旅立つ出家ではなく、札所巡拝は一般に日常生活への復帰を前提としている。近代的観光ほど世俗化しないにせよ、それに通じるものが、宗教的な苦行としての性格と微妙に混じり合う。

ところで、寺離れがいわれながら、有名寺社を紹介するムックシリーズ等がいくつか刊行され、読者を得ている。四国遍路などはいまや"ブーム"だという。霊場会の組織化ということでいっても、現代は江戸初期に続く第二の盛期を迎えているように見える。

関西の有名社寺が多数名を連ねた神仏霊場会は、明治の神仏分離以前の信仰を見直すという趣旨が立てられたが、マスコミでも一定の話題になった。そのほかにも琵琶湖を一周する霊場の創設や古い霊場の復興などの話題が、本紙にはしばしば取り上げられる。

そのような新しい霊場会の一つに出雲國神仏霊場(青木義興座長)がある。設立は近畿の神仏霊場会より早く、平成十六年十二月、出雲大社で発会式を行なった。旧国名の出雲を中心に伯耆も含め、宍道湖、中海周辺の札所十二社八ヵ寺で構成している。

神仏の違いを超えた霊場会は「出雲の国に古くから残る、人と人との『ご縁』を尊ぶ心、『和』の心の大切さを、世界に向けて発信していこう」(公式ガイドブック)というのが設立趣旨だが、かつて多くの参拝者を集めた寺社には社頭、寺門の賑わいを取り戻したい、という切実な願いがあるに違いない。

事務局を担当するのは第三番札所一畑薬師の飯塚大幸住職。臨済宗妙心寺派の住職であると同時に包括法人一畑薬師教団のトップ、四十八歳の若い管長だ。

飯塚管長によれば、島根半島の社寺が手を結んで何かできないかという有識者の提言があり、まず五つの社寺が集まって構想を煮詰めるため話し合った。議論は深夜から未明に及ぶこともあったが、「和合はするけれど、あくまで多様性を尊重する」という認識で一致し、「それならやってゆける」と踏み出した。

「霊場会の運営をNPOに任せてはどうか」というアドバイスは何度も受けたとのこと。「しかし、他人任せにせず、われわれ宗教者が主導権を握っていなくてはならない」というのが同霊場会関係者の考えだ。むろん、事務局の負担は軽くないが、「手応えは少しずつだが、伝わってくる。巡礼路を歩く方が増えれば、それだけ霊場として固まってくる」という実感がある。

新しく誕生した霊場会がいずれも長く存続し、この国の文化の一部として定着するには、まだまだ多くの試練を乗り越えてゆく必要があるだろうが、関係者の熱意が実を結ぶことを強く期待したい。