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"いま"の思いをつづる追悼文集

2009年6月20日付 中外日報(社説)

「限りなく青い 八月の空に/一つの核が 炸裂しました/光は人の皮膚を奪い/七つの川を 血に染めました

あこがれの第一県女入学の喜びも つかの間に/きれいなドレスも/美味しいケーキも/恋も 知らないままに/十二で逝った妹よ/『大正通りの大塚美和子です。お水をください』と叫びながら……」

八月六日の広島原爆忌が近づくと、高校生グループの平和を願う朗読劇でこの詩が唱和される。あの日、十二歳で亡くなった広島県立広島第一高等女学校(略称第一県女=現・広島県立広島皆実高等学校)の一年生、大塚美和子さんを偲んで、二歳年長の姉、竹代さん(大阪府豊中市)がつづった詩である。

高校生だけではない。昨年八月には、同校出身で美和子さんの五期先輩の劇作家、村井志摩子さんの構成により東京・新宿文化センターで、俳優による朗読劇が行なわれた。

「妹よ」と題したこの詩が掲載されたのは、美和子さんの元同級生らで組織した「広島県立広島第一高等女学校・有朋会四十五期追悼の会」が平成十九年に出版した『原爆・八月六日 平和への祈り』である。宍戸和子さん(広島市中区)を中心に編集された。

第一県女をはじめ、広島市内の中等学校一年生の大部分は、家屋解体作業に動員されて被爆、約六千人が命を失った。第一県女の犠牲者は二百二十三人だったと伝えられる。

宍戸さんら市北部居住の約三十五人は安佐郡川内村(現・安佐南区)の川内国民学校の一室を借用した特設教室に通学するよう命じられていたため、被爆を免れた。

体調を崩し、終戦後も長く自宅で静養していた宍戸さんは、その年十二月二十日、広島市草津町(現・西区)の寺で営まれた学校主催の慰霊祭に参列して、息をのんだ。同級生の大部分が亡くなったことを、初めて知ったからだ。

本欄でかつて伝えたように、戦後の広島では、わが子を奪われた親たちが、生き残った同級生を複雑な感情を込めて見つめる傾向があった。宍戸さんも、自分たち"生き残り組"に注がれる視線を感じながら日々を過ごした。被爆六十周年の平成十七年十一月に広島市で、翌年五月には広島県福山市で、生存者のクラス会を開いた。

その席で「第一県女には亡くなった級友を偲ぶ、まとまった追悼誌が作られていない」ことが話題になった。「あの時の悲惨な出来事を、次世代に伝えなくては。私たちの年齢を考えると、一刻も早く作るべきです」と申し合わせた。

六十年たっていたが、同級生の意識は風化していなかった。平成の時代まで生かされた"いま"の思いをつづった文章が、宍戸さんのもとに届いた。アンケートに答える形で協力した人もいる。

亡くなった親の遺筆を提供する人もいたし、詩や短歌、俳句も寄せられた。平成十九年七月、図版入り、B五判百八十七ページの冊子を千部印刷し、母校の「慰霊之碑」に捧げるとともに、遺族や平和団体、各地の学校などに配布した。

伝え聞いた人々から、ぜひ読みたいとの希望が相次ぎ、同年九月に千三百部、さらに今年も千三百部増刷した。この種の追悼文集が版を重ねるのは、異例のことだ。

「生き残った自分たちの使命を果たすべく、全身全霊、祈りをもって取り組みました」と語る宍戸さん。

冒頭の大塚竹代さんの詩は、さらに続いている。

「その日から一週間/父さんと私は 貴女を尋ね/焼煙の街を歩きました/父にも 姉にも見分けられない姿になって/一人で逝った 美和子/水を飲ませてあげたかった/着物を着せてあげたかった/貴女の終焉の地に 側の牛乳屋さんが/毎年ミルクを供えて下さいます……」