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石に元三大師と刻んだ庶民の心

2009年6月23日付 中外日報(社説)

半田孝淳・天台座主が天台宗のトップとして、初めて真言宗の高野山を訪れたことが話題になっている。だが平安時代には最澄が乙訓寺や高雄山寺(現在の神護寺)に空海を訪れたことがある。空海もまた何度か比叡山に最澄を訪れたことがあるらしい。

比叡山は、日光が地面に届かないほど枝や葉が茂っているという意味で「日枝山」と呼ばれたという。夏には木々が枝葉を伸ばし、文字通り「日枝山」になる季節だ。この山に四十年余り親しんできた筆者の感慨を記すことをお許しいただきたい。

比叡山の夏を充分に味わうなら、東塔から最澄の廟所の浄土院を経て西塔までを、ゆっくり歩くことだ。道は平坦だし、路傍には武蔵坊弁慶が閼伽(あか)水をくんだと伝える弁慶水もわいている。西塔への下り口にある常行堂と法華堂は細い渡り廊下で結ばれ、弁慶が廊下の下に肩を入れて担ったという伝説を信じたくなる気がする。

開創から千二百年、比叡山には数え切れないほど多くの僧が登嶺し、おびただしい登山道が形成された。表参道は滋賀県大津市側から直登する坂本本坂(ほんざか)で、裏参道は京都市側から尾根伝いに登る雲母坂(きららざか)である。しかし歴史的に見ると、京都御所と総本山延暦寺を結ぶ雲母坂が事実上の表参道という印象が強い。

そのほかの山上の道で特に有名なのは、千日回峰行者が歩く峰道(みねみち)であろう。西塔・釈迦堂を出て北へ進み、巨大な玉体杉(ぎょくたいすぎ)の下を過ぎると、前方に比良山が現われる。左手寄りに見えていたのが、いつの間にか右へ移るという眺望を楽しむうち、朱塗りの横川中堂へ着く。一日も休むことの許されぬ回峰行者にとっては厳しい峰道だが、現在は東海自然歩道の一部に組み入れられている。

元来、三つのコースがあった千日回峰の道のうち、二つは早くから廃れ、戦後は無動寺回峰と呼ばれる道筋だけになっていた。無動寺谷の明王堂を出発して東塔、西塔、横川を経て坂本に下り、日吉大社から里坊の間を抜け、無動寺坂を経て明王堂へ戻る。

筆者はある時、飯室(いむろ)回峰と呼ばれる飯室谷の行者道がどこにあるかを探したことがある。横川から直接、大津側に下る道筋だが、入り口も出口も薮が茂り、見分けがつきがたい。三度挑戦して、ようやく踏み跡を見付けた。ところがその後、酒井雄氏が飯室回峰での二千日行を成し遂げ、このコースがはっきり分かるようになった。行者のエネルギーの強さを知らされた。

横川から飯室谷の反対の京都側へ下ると、大原の里である。その斜面には、山仕事の道も絡んで、網の目のように細い道が通じている。分かれ道には「元三(がんざん)大師」とだけ刻まれた小さな石の道標がある。元三大師とは永観三年(九八五)一月三日に死去した第十八世天台座主・良源で、横川にあって庶民に法を説き、敬愛された。朝廷から慈恵大師の諡(おくりな)を受けたが、一月三日の命日にちなんで民衆の名付けた元三大師号の方が有名だ。現存の道標は民衆が良源の遺徳を慕った心を伝えている。

飯室回峰の道がよみがえったのと逆に、通る人が減った道もある。無動寺坂の途中からケーブル延暦寺駅へ通じる「紀貫之墓参拝道」は最近、どうなっているであろうか。十年ほど前には年ごとに歩きにくくなる感じだった。ある年、この道の途中でコツコツと機械のような音がするので立ち止まると、思いがけなく目の前の立ち木に、キツツキが一羽いた。

比叡山中の道については武覚超・延暦寺執行が実際に歩いた結果を、地図入りで記録した著書がある。山に生き、山を愛する人ならではの好著を参考に、夏の比叡を歩いてはいかが。