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正師に出会う"確率"

2009年7月7日付 中外日報(社説)

最高裁で無期懲役が確定し服役中だったSさんがDNA鑑定のやり直しの結果釈放された。いわゆる足利事件である。

ここで問題にしたいのは、平成三年の逮捕時の鑑定では被害者の衣服に付着していた体液とSさんのDNAの型が一致したというのだが、その型を持つ人は八百人に一人しかいないということで、この一致に基づいて「自白」の事実性まで認められたらしいことである。

最近、再鑑定が一兆人に一人程度という精度でなされた結果、DNA型は一致しない可能性が高いということになり、Sさんは釈放となった。再審が決定されたが、無罪判決が予想されている。

さて同じ型のDNAが八百人に一人しかいないという場合、それを根拠にして「犯人」が特定できるかという問題がある。八百人に一人とは少ないようだが、仮に犯人が栃木県足利市に居住していたとしても、当時の足利市の人口を十六万とすると、同型のDNAを持つ人は市内だけに二百人いることになる。

するとこの点だけから考える限り、Sさんが真犯人であった確率は二百分の一である。だからこの鑑定に基づいて犯人を特定するのはかなり問題で、どうしてこれが犯人特定につながったのかよく分からない。他方、現在の鑑定では、同型のDNAを持つ人は約一兆人に一人だという。これなら、型の一致は指紋以上の精度で個人の識別に使えることになる(指紋の場合、同型は百億人に一人であるという)。

八百人に一人とは決して小さな数ではないことを心得ておくべきだろう。では小さな数とはどの程度のものだろうか。

話を一般化して考えると、例えば東京で毎日交通事故で死ぬ人は平均すると数人である。今これを仮に四人としよう。すると都民の半分(六百万人)が毎日乗り物を利用するとして、誰かが当日交通事故で死ぬ確率は百五十万分の一である。全国規模で考えればおよそ二百五十万分の一程度だろう。

さてわれわれは、交通事故で死ぬ確率が一日につき二百五十万分の一あると分かってはいても、しかるべき注意は払うだろうが、だからといって乗り物を利用しないなどということはない。つまりこの程度の確率はゼロに等しいと見なして無視するのが通常だといえる。

換言すれば、毎年交通事故で八千人の死者が出ても、だからといって――それが正当かどうかは別として――例えば自動車の使用を禁止しようということにはならないのである。

しかし、仮に交通事故で死ぬ人が一日につき八百人に一人だとしたらどうだろう。その場合、全国規模では毎日数万人の死者が出る勘定になる。これでは車の使用を禁止せざるを得ないだろう。つまり八百人に一人という数は決して小さな数ではない。

新型インフルエンザの感染者は千人の大台を超えたが、大多数はもう完治しているのだろう。しかし本人が気付かず、あるいは医療機関に行かないまま、出勤ないし外出している人がかなりあるようで、新しい感染者の数は交通事故の死者を上回っている。しかし最近はマスクをしている人はほとんど見かけられないから、善かれあしかれ感染の可能性は無視できると一般的に考えられているのであろう。

さて、上記の場合は遭いたくない事件に出合う確率の話だが、会いたい人に会う確率が問題となる場合もある。良き師に出会う確率である。宗教の場合、教えはぜひとも正師から学べということになっている。もっともなことだ。

ところで宗教界に正師は何人いるのか、統計の取りようもないから不明だが、宗教者百人に一人いるのだろうか。あるいは千人に一人だろうか。この程度なら少ないとはいえないのだが、いずれにせよ、その一人が正しい教えを伝える相手の数が一人以上なら、正しい教えは栄えてゆくが、逆に一人を割ると、正しい教えはやがて消滅することになる。

おかしな連想、比較になるが、インフルエンザなら感染者が増えれば直ちに社会問題となる。だが、正しい教えを伝える人が減っても社会は騒がない。それが現代というものであろうか。