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隠者に厳しい時代

2009年8月4日付 中外日報(社説)

最近、『後漢書』逸民伝に始まり、『晋書』隠逸伝、『宋書』隠逸伝、『南斉書』高逸伝、『梁書』処士伝等々、中国の正史に設けられた隠者の列伝を少し丹念に読んでいる。それらの中で、鮮卑族が建てた王朝であり、四世紀後半から六世紀前半にかけての華北を支配した北魏の歴史をつづる『魏書』、その『魏書』の逸士伝はいささか異例であるように思われる。『魏書』逸士伝はすでに失われ、『北史』隠逸伝によって補われたものであるとはいえ、やはり異例であるように見えてならない。

異例であるというのは、何よりもそこに立伝されている人物が極めて少ないことだ。●夸(すいこ)、馮亮(ふうりょう)、李謐(りひつ)、鄭脩(ていしゅう)のたったの四人が立伝されているだけであり、しかも最も長文の李謐伝の大半は、隠者としての行状とはおよそ無縁の「明堂制度論」で占められているのである。明堂とは古代の帝王が政令を施行し、祭祀を行なうために設けられた建築物だ。

『魏書』の逸士伝に立伝されている人物がかくも少ないのはなぜなのか。北魏時代に隠者とされた人物が少ないのはなぜなのであろう。そのように考えてみる時、●夸伝の記事が一つのヒントを与えてくれる。

北魏第三代皇帝の太武帝を補佐する大官の崔浩(さいこう)と若き日に親しく付き合ったことのある●夸は、しつこい求めを断わり切れず、趙郡高邑(河北省高邑県)からひとまず都の平城(山西省大同市)に赴いて崔浩と面会した。だが、崔浩が官僚に任命する詔書を無理やり懐にねじ込もうとすると、仕官する意思のまったくない●夸は、それを限りにさっさと引き揚げてしまう。

ただし、「朝法は甚だ峻(きび)しく」、すなわち王朝の法制はとても厳しく、そのため●夸には「私帰の咎め(詔書を無視して勝手に引き揚げてしまったことに対するお咎め)」が下されそうになったという。世俗との縁を絶つ隠者として生きようとする者にとっては、すこぶる居心地の悪い時代であったようである。

そしてまた『顔氏家訓』終制篇にも次の一文が見いだされる。

「北方の政教は厳切、全く隠退する者無し(華北の政治教化はとても厳しく、隠棲する者はまったくいない)」

『顔氏家訓』の著者の顔之推(五三一~五九○?)は、江南の梁に生を受けたものの、五五四年、梁の元帝政権が崩壊すると華北に拉致され、北魏を継いだ北斉、北斉を滅ぼした北周、そしてさらに北周を継いだ隋と、仕える王朝を転々と変えなければならない数奇な運命に翻弄された。右の一文にはそのような人生経験に基づく感慨が込められているのである。

顔之推の言うところを裏書きするかのように、北斉の歴史をつづる『北斉書』にも、北周の歴史をつづる『周書』にも隠者の列伝は設けられてはいないし、『隋書』の隠逸伝に立伝されているのは、『魏書』逸士伝と同様にたったの五人にすぎない。

『魏書』逸士伝には、その序にも注目すべき次の叙述がある。

「昔、夷斉(いせい)は周武に全きを獲(え)、華■(かいつ)は太公に容(い)れられざるは何ぞや。其の心を求むる者は許すに激貪の用を以てし、其の跡を督する者は以て束教の風と為す」

夷斉とは周の武王の武力革命に抗議して首陽山に隠れた伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟であって、中国の隠者の代表格。華■とは華士(かし)と狂■(きょういつ)の二人の隠者であるが、斉の始封者となった太公望呂尚によって殺害された。

伯夷と叔斉は周の武王によって命を奪われることはなく、華士と狂■が殺されたのはなぜなのか。そのように設問した上、周の武王は隠者たちの清潔な生き方に「激貪の用」、すなわち競争社会の貪欲な風潮にショックを与える効果のあることを認め、一方の太公望は隠者たちが世俗に背を向ける存在であるが故に、礼教による引き締めを図って彼らを殺害したというのである。

おおむねの正史は、隠者の生き方を絶賛することに終始し、隠者を殺害するのはもってのほかのこととしているのだが、見られるように『魏書』逸士伝の序はいささか論調を異にし、太公望にも一定の評価が与えられているのである。それというのも、華北では「朝法は甚だ峻しく」「政教は厳切」であったことによるのに違いない。

●=目へんに圭

■=橘から木へんを取った字