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封印をほどいて戦争体験を語る

2009年8月27日付 中外日報(社説)

戦後六十余年を経て、自己の戦争体験を語り始める人が増えている。「思い出すのがつらい」など、さまざまな個人事情から長く体験を封印してきた。だが、年ふるとともに「自分にしか語れない戦争の悲惨さを伝えておきたい」との思いに駆り立てられるようだ。過去に二期十二年参院議員を務めた神戸市在住のYさんもその一人。女学生の時、遭遇した神戸大空襲の「生き地獄のような」体験を八月下旬、兵庫県尼崎市で開かれた「平和のための戦争展」で初めて語った。

神戸は大戦末期、連日のように空襲を受け、一万人以上が犠牲になったともいわれる。そのうち昭和二十年三月十七日と、野坂昭如氏の悲しい小説『火垂るの墓』に出てくる六月五日の空襲が特に大規模だった。

Yさんは神戸の西半分が一晩で焼け野原になった三月十七日の空襲に遭った。寒い夜だったという。空襲警報が鳴り、灯火管制で暗い夜空をさらに暗くするほどの数のB29の爆音が響き、照明弾で昼間のように明るくなった。同時にザーザーと雨のように焼夷弾と爆弾が落ちてきた。

山の手と海岸線から市街地を包み込むような爆撃で、多くの住民が逃げ場を失った。Yさんは逃げ惑いながら「なんてひどいことをする」と思ったそうだ。低空飛行するB29の巨大な機体が、火災の炎の反射で真っ赤に見えたことを鮮明に覚えている。

悪夢のような夜が明けると、焼け野原に数え切れないほど多くの犠牲者が焦げた丸太のように横たわっていた。幼い子を抱えた母親の遺体の防空頭巾がまだくすぶっていた。Yさんは、それ以後の記憶が途切れてしまっているという。

戦後、国会議員活動などを通し平和を訴え続けてきたが、自身の空襲体験には口を閉ざしてきた。「つらすぎる」ということが一つ。また、国民をこのような悲惨に追い込んでいった昭和初期から敗戦に至る時代背景は、容易には分かってもらえないと考えたこともあるようだ。しかし、昨今の時代潮流に、もはや戦後ではなく「戦前」だ、と危惧を持ち「語らねば」と思い立ったという。

「口つぐみ無残かたらず来たれども残生わずか語り部とならん」

歌人でもあるYさんが、このほど発表した歌集の一首である。

ところで私事になるが、筆者は二十年六月五日の大空襲の直後、神戸市兵庫区で生まれた。生前の亡母から空襲警報下、それぞれ九歳、六歳上の兄二人の手を引き身重の体で何度も逃げ回った話を時折聞かされて育った。亡父は徴用工で軍需工場に動員されていた。

Yさんが語ったようにB29は、まず山沿いを焼夷弾で焼き、海岸線から爆撃してきたこと。また、母は少し足が不自由だったため逃げ遅れて防空壕に入れず、母子三人で「ここで死のう」と浅い古井戸に身を潜ませていたこと。その防空壕は爆弾に直撃され、避難していた人々が全滅したこと。そんなことを話していたように記憶する。

母は逃げ遅れ逆に命拾いしたことにこだわっていた。「みんなと一緒に行動したらむしろ危ない。防空壕に入っていたら(筆者は)今いない」が口癖だった。筆者は、親元を離れてからあまり話をする機会がなくなった。当時もっと詳しく聴いておけばよかったと後悔が残る。

もとより戦争は残酷である。原爆はもちろんだが、無抵抗な一般市民を無慈悲に巻き込む無差別爆撃は、これまたむごいものだ。生き延びた人々にも深い心の傷を残す。上述のYさんは今でも工場のサイレンを聞くと空襲警報を連想し、鳥肌が立つという。米国だけではなく、戦時中は日本も中国を無差別空爆した。大切なことは、人間の愚かな行為を繰り返さないため、つらくはあっても体験を語り継ぐことだろう。あらためてそのことを思う。