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風向きを変えたオバマ米大統領

2009年10月20日付 中外日報(社説)

「今度の大統領は、どこか違うな」。広島や長崎の被爆者や、平和運動に携わる人々に期待を抱かせたのが、オバマ米大統領である。

何しろ米国では、原爆投下によって終戦が早まり、百万人もの米兵の命が救われたということが"公式見解"とされている。

それにもかかわらずオバマ氏は就任早々の四月、チェコ・プラハでの演説で「米国は核兵器を使用した唯一の核保有国としての道義的責任がある」と言明した。七月のイタリア・ラクイラでのサミットでは、来年三月に「核安全保障サミット」を開くことを明らかにした。これを受け、主要八ヵ国の首脳宣言で「核なき世界を目指す」ことが謳(うた)われた。世界の風向きが変わったのである。

まだ何の実績も挙げていないオバマ氏にノーベル平和賞が贈られることになったのは、将来への期待を込めたものであろう。

終戦直後の日本には、広島と長崎の被爆の実態を伝えようと、米国を中心に多くの外国特派員が訪れた。いずれも真剣な態度のジャーナリストではあったが、談話や映像の速報を競うあまり、一部被爆者の目には興味本位の物見高い取材ぶりとも映った。目に見える実態を追うあまり、心の中まで見通す取材が後回しにされた感があった。

昭和二十年八月六日、宝塚歌劇団出身の女優・園井恵子は爆心から七百五十メートルの木造建築の旅館にいた。軍の命令で「桜隊」という移動劇団に所属し、中国地方で戦意高揚の慰問公演を続けていた。即死者もいたが、園井はほとんど無傷で脱出することができ、兵庫県の後援者宅で終戦を知った。盛岡市に住む母親あてに「やっと自由な演劇活動ができる時代が来ました」と喜びのはがきを書いて、ポストに入れた。

ところがその直後、園井の全身に皮下出血の斑点が生じ、髪が抜け、六日後の二十一日に急死した。三十二歳だった。「自由な演劇活動」をする日は、ついに訪れなかった。

そのころ広島では、園井と同じような病状で死亡する"無傷の被爆者"が相次いだ。放射能の影響と知らぬ人々は「ガスを吸った」と話し合った。原爆から毒ガスのようなものが放出され、不幸にしてそれを吸っていた者が死ぬ、と信じられた。「無傷なのに死ぬ」ヒロシマの不安を、外国のメディアが察知することはなかった。

無傷であっても発症する例は、その後も続いた。例えば「原爆の子の像」のモデルとされる佐々木禎子さんの死は、十年後の昭和三十年だ。爆心から一・九キロで被爆したが、小学校ではリレーの選手に選ばれるほどの元気者だった。

旧制中学校四年生の時、爆心から一・五キロで被爆した筆者の同級生の一人、A君が、昭和六十年に亡くなった。コンピューターの開発研究で世界のトップを走っていたのに、原爆の影響を否定し難い病状の死だった。姿を変え、形を変えて放射能の恐怖は続く。そこへ「米国の道義的責任」を認める大統領が就任した意義は大きい。

米国内には、大統領のノーベル賞を歓迎する人々が多い半面、反対論や批判論も根強いと聞く。広島や長崎では、この際オバマ氏に被爆都市を訪問してほしいと望む声が高い。

しかし今は、功を焦らない方がよくはないか。被爆地訪問を"強行"するよりも、ごく自然に広島と長崎に立ち寄れる雰囲気づくりをすることが先決だ。

先ごろ、広島を訪れて広島平和記念資料館を見学したルース駐日米国大使は、自分の広島訪問の印象をオバマ大統領に伝えたいと語った。資料館には、確かに目で見える資料が保存されている。その中から、園井のように「自由な演劇活動」ができなかった無念さを"心の目"で読み取り、大統領に伝えるよう、ルース大使に期待したい。