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人間関係の距離を取り払いうる場所

2009年11月12日付 中外日報(社説)

間もなく忘年会シーズンだということもあって、中学高校時代の友達数人が集まり一夕食事を共にしながら歓談することがある。話題はご多分に漏れずまずは健康のこと、病気の話、次に楽しかった、また辛かった思い出、それから誰彼の消息談になる。毎年似たような会合だが、それでも皆なんとなく満足して家路に就くのである。

いつも通りとはいっても、そこは平常とは違った場である。「石川! 君はあの時……」などと、敬称や敬語抜きで会話がなされ、それが失礼にならない。人の名を呼び捨てにできる一種の爽快感は新鮮ですらある。

中学や高校のころは地位も身分もなく、経歴や業績もなく、仕事にまつわる利害関係もしがらみもなく、「石川」は単純に「石川」自身であった。社長や社員でもなく、店主や従業員でもなく、教授や職員でもなく、まして売り手でも買い手でもなく、上司でも部下でもなかった。

世間では肩書がものをいう。人に対する態度は肩書で決まるところがある。中高時代にはそれがなかった。だからかつての友達の集まりでは、肩書のない関係が再現されて、敬語敬称抜きの会話が交わされる。社会人となってからの人間関係との違いをあらためて実感させるのである。

社会人同士の間にはいわば目に見えない壁がある。「先生」とか「さん」とかいう敬称は、敬意の表示ではあるが、同時に距離の感覚を示す。距離は、関係性の表現でもあるが、用心のためでもある。付かず離れずということだ。

一般に人間は別れるのは嫌いだが、近寄り過ぎるのも警戒するものである。会った時、また別れる時の挨拶は互いを意識している、無視してはいないという表現である。これは他者の勢力範囲に入ったり出たりする時につきものの、一種の通過儀礼ということができるだろう。

「さようなら」「では」「じゃあね」などは、昔風の「さらば」も含めて、同じ意味である。皆「それならば」ということだ。「別れたくはないけれど、どうしても事情があるならば」「それならば」仕方無いから別れることにしましょう、ということだろう。ドイツ語、フランス語、中国語などでは「また会いましょう」と言う。別れのもう一つの面だ。

他方、相手に近づいたり触れたりしなければならない時は「失礼」と言う。挨拶は気安くない関係ほどむしろ丁寧になるものである。

こうした習慣は人間関係の中にある壁を表現する。社会人同士は、極限すれば攻撃と防御の可能性を秘めて、鎧兜に身を固めて付き合っている。具体的な社会関係に加えて、無意識のうちに自分をひけらかし相手を見下そうと競争するところがある。だから日常生活の衣装の下に鎧がちらつくのである。

それに反して、もはや利害関係もしがらみもない昔の友達との一夕の懇談では、鎧も壁もなかったかつての関係が再現される。それが今はかえって新鮮に感じられるわけだ。

ところで、現在のアメリカのキリスト教会は、信仰を確かめ合う場というよりはコミュニケーションの場になっているようだ。一種の社交場である。これは信仰の衰退と見ることもできようが、見方によっては、教会は神の前で人間すべてが平等になる場、人間関係の壁も鎧もうせる場なのである。

実際問題としてこの意味での平等がどれだけ実現しているかは別として、こういう場があって一週間に一度ずつ万人に開かれることも決して悪いことではなかろう。日本の寺院なども信仰の拠点であるとともに、そのようなコミュニケーションの場としての性格を持てば、社会的な存在感もおのずから高まってくるかもしれない。