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照葉の森の緑に慰められた歌人

2009年12月1日付 中外日報(社説)

地味な話題を一つ。

昨年九月十七日、千葉県佐倉市で死去した歌人、醍醐志万子さんの遺歌集『照葉(しょうよう)の森』が一周忌を記念して弟妹により出版、有縁の人々に配られた。醍醐さんは、八十二年の生涯の大部分を、生まれ故郷の兵庫県篠山市で過ごした。

実力ある歌人として注目されながら、病身のため中央の歌壇で活躍することがなかった。

『照葉の森』は醍醐さんにとって第九歌集になる。表題は、八十歳になって移住した佐倉市の氏神の一つである八社(はっしゃ)神社の森(井野の森)を、弟妹に介助されて散歩した時の作「照葉の森に氏神のおはすとぞ八社大神と鳥居に掲ぐ」から取られた。

醍醐さんは、戦後関西で結成された短歌結社「ポトナム短歌会」で学んだ。ポトナムは韓国語の「柳」にちなむ。結社の中心だった小泉苳三、頴田島(えたじま)一二郎氏らがソウル引き揚げの体験者だったからだ。国崎望久太郎(もくたろう)、和田周三氏らもいた中で、醍醐さんは「節を曲げざる歌人」と呼ばれた小島清氏の歌風にひかれ、指導を受けた。

昭和五十四年、小島氏逝去ののちは志を同じくする仲間とともに歌誌『風景』を創刊した。篠山に軸足を置き、地元の短歌会や高校生の作品指導をした。新聞選歌も担当した。病弱の身を押して、短歌の裾野を広める努力を重ねた。

かつて「ポトナムの小島門下には、二人の才女がいる」と言われた。一人は醍醐さん、もう一人は北海道千歳市在住の遠藤秀子さんである。この二人は、極めて仲が良かった。遠藤さんは『風景』が創刊されるといち早く入会し、醍醐さんを支え続けた。

長い旅行をする体力のない醍醐さんのため、遠藤さんは何かあると篠山へ駆け付けた。遠藤さんの支えがあったからこそ『風景』は平成十七年まで、二十余年にわたり刊行を続けることができた。

八十歳を迎えて、独り暮らしの醍醐さんは、住み慣れた篠山から弟夫婦の住む佐倉への転居を決意した。厳しい決断だった。

・やうやうに春の光と思ふにも息づき荒く庭よりもどる

・八十年たつた八十年住みし家に別れんとしてお辞儀一つす

高齢者となって見知らぬ土地への転居。とまどいは多かった。木々の形、畑のネギの姿、関西にはないものばかりだ。

・われの知る山にはあらずのつたりと木木を茂らす房総の山

・転居一ヶ月一ヶ月よととなり家の畑を見れば関東の葱

それでも佐倉の社寺は、老いた醍醐さんの心を慰めてくれた。

・八社神社の謂れは知らず八社とふ語感嘉(よみ)して賽銭を上ぐ

・樹齢何百年、何年建立と聞きて入る真言の寺に父と子のこゑ

「時流に媚びず、直截・単純な作風を好んだが、内容は濃密」と遠藤さんに言わしめた醍醐さんは、佐倉にあっても平明な言葉を選びながら詠み続けた。

・病める身に何しに旅を行きにしか正岡子規また長塚節

・賑はしく位牌並べて移り来し下総佐倉に冬過ぎて春

遠藤さんは『照葉の森』の巻末に、友情溢れる筆致で「解説」を寄せている。「死と隣り合わせに生き……悲しみには耐え、喜びは素直に表したが、それは人に生き方の美しさを知らしめることにも繋(つな)がった」と。

短歌に限らず、俳句や詩やその他の文芸で、地道な活動を続ける人は多い。その人々にも必ず訪れる病苦や老い。醍醐さんが『照葉の森』でさりげなく詠んだ境地を、遠藤さんは「救済の絶唱」と呼ぶ。その絶唱が、一人でも多くの宗教者に届くことを……。